京都ノートルダム女子大学人間文化学科

本学TOP人間文化学科TOP

人間文化学科

基礎演習(1年次)

発展演習(2年次)

専門演習(3年次)

卒業研究(4年次)

 

 

演習クラス

   

2011年夏 ゼミ交流プログラム

 

2011年6月15日(水)から7月6日(水)にかけて、『今昔物語集』を題材とした、本学科4つのゼミの交流プログラムを催しました。
他のゼミは何をしているのか気になる、という学生の皆さんのつぶやきを普段より耳にし、複数のゼミを体験する機会を設けた次第です。ただし、覗いてみるだけでは面白くありません。それぞれのゼミの特徴を際だたせるために、同じ題材『今昔物語集』を、各々別の切り口で考察してみました。さらには、それらの考察を共鳴させ、『今昔物語集』の世界に深く入り込んでみようという試みです。はたしてどのような展開と相成りましたでしょうか。

  • 【参加ゼミ】
  • ・幽霊と妖怪の文化史ゼミ(服部昭郎)
  • ・本と京都の町歩きゼミ(岡村敬二)
  • ・近代文学とまんがゼミ(長沼光彦)
  • ・美術と博物館ゼミ(吉田朋子)(*合同懇話会とフィールドワークに参加)
  • 【日程】
  • ・6月15日(水)、22日(水)、29日(水)・・・各ゼミをまわり、それぞれのモチーフに従ったゼミ実践を体験。
  • ・7月6日(水)…参加ゼミ員が一同に集まり、合同談話会を開催。
  • ・7月18日(月)…今回の題材の舞台となった場所のフィールドワークを実施。
 

合同懇話会の様子

4つのゼミ員が集まり盛況
 

【題材】
「今昔物語集巻十四の四十二 尊勝陀羅尼の験力に依りて鬼の難を遁(のが)るる語」
〔あらすじ〕
延喜の御代に、西三条右大臣藤原良相(よしみ)の子、常行(つねゆき)という者がいた。年齢を経ても元服もせず童形のままだったが、美男子で色を好み、女を愛することで並ぶ者はなかった。
父母は百鬼夜行を恐れて夜出歩くのを禁じていたが、東の京に思いをかける女がいたので、供の者を二人だけ連れてこっそりと出かけた。大内裏の美福門のあたりに行きかかると、たいまつを手にした集団に出会い、供の者の助言に従って、常行は神泉苑に忍びこんだ。
覗いて見るとそれは鬼の集団、百鬼夜行であった。ある鬼が常行の気配を感じ、捕まえに来ようとするが近づけない。「どうして捕まえないのだ」と他の鬼が聞くと、「尊勝陀羅尼がいらっしゃいます」とその鬼は答えた。その話を聞いたとたん、鬼たちは一散に走り去っていった。
ようやく逃げ帰った常行は、二、三日の間高熱が続いたが何とか回復できた。鬼たちを追い払うことができたのは、乳母が兄弟の僧に頼んで尊勝陀羅尼を書いてもらい、常行の着物の襟に入れておいたからであった。この話を聞いた人々は、尊勝陀羅尼を書いてお守りとして持ち歩いたということだ。

【各ゼミの内容】
○幽霊と妖怪の文化史ゼミ
鬼の文化表現
今回のゼミ交流の共通テキストは今昔物語の中の一話であった。その一話は鬼の物語で、「幽霊と妖怪の文化史」ゼミとしては恰好の材料であった。鬼は言うまでもなく日本の「物の怪」の代表格で、これほど様々に出現する「物の怪」は他には見当たらない。風土記、説話、絵巻物、浮世絵などは言うに及ばず、この現代においてすら鬼は節分には必ずやって来るのである。
今回物語に出没した鬼たちは平安京の昔、忌日に外出すると出会うと人々がおそれたもので、出会ったら最後一口で食われてしまうとされていた。忌日であるにもかかわらず無謀にも夜外出した若者は幸い乳母の機転で身につけていた「尊称陀羅尼」によって助かったのだが、恐ろしさのあまり臥せってしまうほどであった。
鬼についてはこれまでも多くの論考があることは改めて言うまでもないが、クラスではまず鬼とはいかなるものかについて、これまでに試みられている鬼論を整理することから始めた。そして疫神、水神、雷神から始まり、祖霊神あるいは怨霊としての鬼など様々な鬼のシンボリズムの文脈をたどりつつ、物の怪としての鬼の出現を文化史の一端として捉える試みを行った。北野天神縁起絵巻、百鬼夜行絵巻あるいは鳥山石燕や歌川国芳などの鬼も図像として紹介した。
さて、もし学生諸君が鬼、あるいは鬼の周縁について何等かの研究を行ってみようとする場合どういう可能性があるのだろうか?一つのアイデアが留学生から出された。これまでもすでに一部では指摘されていることだが、鬼の一話である「酒呑童子」の祖型として唐代の「白猿伝」を再検討してみようというものである。留学生が中国語という母語を生かし、「白猿伝」の厳密なテキスト読解を元にそのヴァリエーションを再検討するというアイデアはなかなか面白いのではないか。学生諸君が斬新で平成の若者らしいアイデアを発掘することを応援します。(服部昭郎)
○本と京都の町歩きゼミ
神泉苑をめぐる故事−地図の中で彼の時代に入り込む
このゼミでは、地図を媒介にして、「その時代」「その場所」に入り込むことからはじめた。 『新修京都叢書』に所収の「新撰増補京大繪圖」(元禄4年)地図のうち、平安京にあたる地図部分を複写したものを貼り合わせて、まずもって自分だけの地図を手元においた。その地図に、色鉛筆で、賀茂川や堀川、東山や船岡山などを随時色分けして、だいたいの位置関係を頭においた。この地図は江戸時代のもので、どちらかというと平安時代よりも現代に近い地理状況を示している。それゆえこの地図の上に、一条大路から九条大路、京極大路から西京極大路にわたる平安京と、一条大路・二条大路・大宮大路・西大宮大路の囲まれた大内裏を色分けしてみた。そしてさらに、当時は二条大路と三条大路、大宮大路と壬生大路に囲まれた広大な苑池であった神泉苑を塗り分けた。これで『今昔物語集』を読むにあたっての地理的な舞台が整ったことになる。
こうして色塗りされた地図を手元において、次には、影印・本文翻刻された「神泉苑絵巻」をもとに、神泉苑の伝説を学んだ。それは、@弘法大師空海が守敏僧都と天皇のもとで秘儀を競った話、A守敏僧都が龍を閉じ込め旱魃をもたらしそれを空海が龍を勧請し雨を降らせた話、B守敏僧都が西寺に篭って壇をこしらえ空海を呪い殺そうとし、空海も東寺に壇をかまえて互いに呪いその矢が空中を飛びあった話、C空海が相手を欺くために自分が死んだことにし油断をさせて結局守敏僧都を呪い倒した話、である。絵巻をみながらこれらの話をした。
つぎに、この「神泉苑絵巻」と同様の説話が「今昔物語集」巻14第40話と巻14第41話にあることを紹介した上で、いまいちど、色塗りした地図をもとに、この請雨伝説の舞台となった神泉苑の位置を確認してみた。そしてスティーヴン・トレンソン、山口えりらの研究成果をもとに、神泉苑での請雨経法の勤行年月や経法の壇所の様子を学んだ。さらに今回の『今昔物語集』共通テキストの舞台となっている、常行が百鬼夜行と出会った「神泉苑北門」の場所、それを各自塗り分けた当時の神泉苑の地図のなかで大きく印をつけた。これがわたしのゼミで最も大きな課題としていた、「神泉苑北門」の場所の確定を地図に落としてみる、という作業だった。
そしてゼミの後半で、今昔物語の時代にタイムスリップしたわたしたちを、現代の場所と今の時代にもどし、神泉苑研究の現在的到達点であるところの、神泉苑はもともと禁苑(天皇の庭園)であり遊宴の場であったこと、宗教的な霊場として御霊会が行われたこと、請雨経法が執り行われ神泉苑の池に神秘性が大きく付加されてきたこと、龍の生息伝説が生み出されたこと、史実としては空海の生きていた時期には神泉苑で請雨経法がおこなわれていないこと、のちに空海請雨伝説が作られ請雨経法が権威付けられたこと、平安末期から神泉苑の四壁が崩れはじめ境界がなくなってきたこと、北大門だけが出入できて余門は開かれなくなったこと、神泉苑での請雨経法も平安末期には衰え鎌倉時代以降は神泉苑もすたれてきたこと、などを確認しあった。
こうして、ゼミを終えた。このように、平安京のなかの大内裏、平安京の南に存在し今回の神泉苑伝説に登場する東寺・西寺の位置、大内裏の東南に位置していた神泉苑とその北門の場所、こうした地理的な位置関係を今一度整理することにより、7月18日の「平安京−神泉苑 フィールドワーク」という実践的学びのプログラムへとつなげたというわけであった。(岡村敬二)
○近代文学とまんがゼミ
鬼と出遭う時と場所
「近代文学とまんがゼミ」は、文学やまんが、アニメなどを題材として、表現を分析したり、作品の背景にある文化の文脈を考えたりしています。今回のテキストでは、平安時代の文化的背景を知ったうえで、「なぜ鬼と出会ってしまうのか」というテーマで考えてみました。
今回の話で主人公の常行は、なぜ鬼に出会ってしまったのでしょう。現代の私たちならば、危険な場所に、危険な時間帯には行かないという心構えはあります。夜は明かりもまばらで、怪しげな人がうろつくような場所へ行けば、事件に巻き込まれてしまうのは当然だと考えるでしょう。実は常行は、危険な時間帯に街をうろつくというタブーを犯しています。夜行の日という、鬼が出没すると言われる日に、わざわざ出かけていたわけです。平安時代の貴族たちは、陰陽師に暦作りや方角の占いをさせて、不吉な日を知り、危険を避けようとしました。大人になっても童形をしている常行には、そういう分別が無かったのでしょう。
ただ、常行が鬼に出会った場所は、天皇の居所があり、貴族たちが公務に就く、内裏の前の大通り、二条大路です。現代の感覚でいうと、さほど危険な場所とは思えません。夜中ではありますが、自宅からオフィス街へ向かう大通りで、化け物に出会ったという具合です。
そこで『今昔物語集』に載る他の鬼の話を見てみると、「巻第二十七の第八 内裏の松原に於て鬼の人の形と成りて女を噉(くら)ふ語」や「巻第二十七の第九 官の朝庁(あさまつりごと)に参る弁の鬼の為に噉(くら)はるる語」では、内裏の内部に鬼が出て、人を食べたというエピソードが紹介されています。さらに「巻第二十七の第十 仁寿殿(にんじゅうでん)の台代(たいしろ)の御灯油(おおとのあぶら)取りに物の来る語」では、天皇の居所である大内裏の内部に、油を盗む物の怪が出たという話が紹介されます。どうやら鬼は時や場所を選ばず、登場する場合があるようです。
こうなると現代の私たちの知恵程度では対処できません。時や場所が限定されなければ、危険を避けるのは難しいでしょう。とはいえ、よく考えれば、現代の不幸も時や場所を選びません。突然に事件や事故に巻き込まれることは、日々起こっています。平安の鬼も現代の事故も、突然にやってくるという点では変わりないのです。だからこそ尊勝陀羅尼が尊ばれるのでしょう。突然の危機をも回避してくれる力を持つからこそ、いつ不幸に陥るかもしれない私たちに救いをもたらしてくれるのです。
私たちは不幸に出会うと「なぜ出会ってしまうのか」と落胆するのですが、むしろ不幸は理由もなく出会うものなのでしょう。今でも神や仏の助けが必要になるのは、そういう時と場所なのです。(長沼光彦)

【今昔物語集神泉苑フィールドワーク】
2011年7月18日(月)に、今回の物語の舞台となった場所、神泉苑を主として、平安時代の京都を偲ぶフィールドワークを実践しました。物語の舞台に加え、現在の京都と平安時代の京都との違いを、歩きながら実感してみようというねらいです。
現在の京都は、平安時代の京都と比べると、中心部が東へずれています。京都駅を出るとすぐ目に入る京都タワーホテルの横をまっすぐ北へ伸びる路、烏丸通りが、現在の京都の中央を走る大通りということになるでしょうか。烏丸通りに沿って地下鉄が走り、やがては京都御所に行き当たるので、昔ながらの大通りと思う人もいるかもしれません。
しかし、平安時代の大内裏につながるメインストリート、朱雀大路は、もっと西にあったのです。それは、京都駅から五重塔を望むことができる東寺が、京都駅より西側にあることから分かります。東寺は朱雀大路の東に位置し、京都を守護する役割を与えられていました。その東寺が京都駅よりも西にあるのですから、朱雀大路はさらに西にあることになります。
そこで今回のフィールドワークは、平安時代の京都を実感するために、東寺を起点とし、朱雀大路に連なる京都の大門である羅城門の跡、羅城門の西に位置した西寺の跡を巡り、さらに北上して大内裏の跡へ行き、神泉苑を訪れるコースを設定しました。
当日は接近する台風のため、昼頃は曇ったおかげで暑さに負けずに散策することができたのですが、神泉苑に向かう頃から大雨となり、神泉苑の竜が雨を呼んだのかと思われるようなタイミングでした。二条城内の神泉苑北門の跡に立ち、常行のように百鬼夜行から隠れてみる予定でしたが、残念ながら大雨のため中止となりました。とはいえ、平安時代の京都を巡る今回のコースで、かつての京都を実感できたという参加者がいて、羅城門跡や大内裏跡の碑文の謂われを発見できたことなどもあり、充実した一日でもありました。
  • 〔フィールドワークの行程〕
  • 東寺駅(近鉄京都線)集合=12時30分
  • → 東寺= 12時45分 拝観
  • → 羅城門碑=13時45分
  • → 西寺跡=14時15分
  • → 千本丸太町行きバス乗車=14時30分
  • → 平安京大内裏跡=15時5分
  • → 二条城参観=15時45分
  • → 二条城退城=16時30分
  • → 神泉苑=17時00分


東寺五重塔前

羅城門碑前
 

神泉苑にて
 
 
 
 
 
Get Macromedia FLASH PLAYERこのサイトを正しくご覧頂くには最新のMacromedia Flash Playerが必要です。 京都ノートルダム女子大学人間文化学科
〒606-0847 京都府京都市左京区下鴨南野々神町1番地
TEL 075-781-1173(代表)