京都ノートルダム女子大学 大学院人間文化専攻

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論文梗概
 
深川冴起  「太宰治「善蔵を思ふ」論−「嘘みたいな、まことの話」を基軸に」 
 

 太宰治は作家像と作品世界が混在したままに、論じられている傾向が強い。なぜならば、太宰が実生活を素材に作品を創作しただけでなく、意識的に太宰自身を思わせる人物を作中に登場させたからであろう。つまり、評者は登場人物に太宰本人を重ねているのである。
 しかし太宰の描いた太宰像は、私小説の定義としていわれる、ありのままの自己表現ではない。むしろ太宰は、私小説的に読まれることを利用し、太宰像を提示することで、虚構と事実の在り方を意識的に作中に取り入れた作家であるだろう。つまり、作品世界から太宰の伝記的事実に符合する場面を重点的に論及するのではなく、描かれた虚構世界の内実に加え、表現の構造も含めて検討していく必要がある。
 本稿で取り上げる「善蔵を思ふ」(『文芸』昭一五・四)においても、従来の研究では、太宰の実人生を明らかにするためにのみ論及されてきたきらいがある。例えば、標題に掲げられている葛西善蔵との関係や、それに伴う太宰の望郷の念が中心的な研究テーマとなっているのだが、それだけでは「善蔵を思ふ」に内在する問題点は論じ切れるものではないだろう。
 「善蔵を思ふ」が太宰の身辺雑記、とりわけ私小説的に鑑賞されてきた要因として、「まことの話を語らう」という冒頭からの投げかけと、素材である実体験やそれに伴う様々な回想録が確認されていることにあると思われる。とは言え、その通りに太宰に誘導され、実際に「まことの話」として読み進めることは、作品に太宰の心情が投影されているという発想、つまり作者が必ず事実を語るという私小説の前提に引きずられている証であると言わねばならない。
 予てから太宰作品にとって〈嘘〉や〈まこと〉、虚構や事実というテーマは研究素材として重要視されてきた。それにも関わらず、現時点まで「善蔵を思ふ」は冒頭から〈嘘〉や〈まこと〉が明示されていながらも、語られている内容も然ることながら、どのように語られているのかという小説の機能的な読みの視点から考察されることは不十分であったという他はない。
 以上の見解を踏まえ、本稿では実体験を素材に創作されているものの、事実の再現ではなく、あくまでも虚構として描かれた「善蔵を思ふ」の世界を、先入観に囚われず丹念に読んでいく。その中でも主眼として「善蔵を思ふ」に点在する〈嘘〉の仕掛けを取り挙げながら、作品の色調を決める「嘘みたいな、まことの話」の内実を探っていきたい。
 考察の結果、「善蔵を思ふ」がその身辺雑記的なリアリティに依拠しつつ、日常を飛躍した作品世界が展開されていることを明らかにする。そして「嘘みたいな、まことの話」を語るという叙述を、冒頭から読者に提示した太宰の創作方法を視点とすることで、虚構と事実の在り方を作中に取り入れた太宰作品の系列にあることを提示したい。それによって、私小説が氾濫する当時の趨勢と一線を画そうとした、太宰の創作方法の一端に触れることができるだろう。

 
 
 
 
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