京都ノートルダム女子大学 大学院人間文化専攻

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論文梗概
 

上山真里奈
太宰治「きりぎりす」に関する研究

 

太宰治の「きりぎりす」は、昭和十五年十月一日に『新潮』から発表された女性一人称小説である。「おわかれ致します」という主人公の「わたし」の語りによって、画家である夫「あなた」を批判する内容である。
 これまで「きりぎりす」の主題は「反俗精神」であるとされ、「わたし=反俗」「あなた=俗」として解釈されてきた。このように解釈されるようになった原因としては二点考えられる。一点目は、平野謙が『都新聞』の「文芸時評」で、「きりぎりす」の主題は「反俗精神」であるといち早く指摘したこと。二点目は、「きりぎりす」の発表から六年後に書かれた「『玩具』あとがき」の中で、太宰は自身の俗物根性を戒めるために「きりぎりす」を書いたと述べたこと。この二点によって、「きりぎりす」の主題は「反俗精神」であると現在の研究者たちに裏付けられている。しかし、「わたし=反俗」とされているにも関わらず、その「わたし」の語りには多くの矛盾が見られた為、主題は「反俗精神」では無いのではないかとも考えられる。
 「わたし=反俗」とされてきた原因としては、読み手が「わたし」の語りの内容を信頼していたためではないかと考えられる。「きりぎりす」では、夫である「あなた」が成功とお金によって性格が変わってしまったことへの批判が、「わたし」の語りのみで行われる。それによって、「わたし」の主張は、「わたし」が語り手であるが故に信頼できるものであるとされてきたのだ。しかし、「わたし」の語る内容に矛盾が見られるとなれば、「わたし」の語りを信頼しても良いのかという疑問が生じる。
 作者である太宰治は、批判される側の「あなた」では無く、批判する側にある「わたし」を語り手にしている。批判される側である「あなた」が語り手であれば、読み手は「あなた」の語りに不信感を抱きながら読むことが出来る。しかし、批判する側である「わたし」を語り手にすれば、読み手は「わたし」の語りを疑わない。太宰は、当事者である「あなた」では無く、その妻である「わたし」を語り手にすることによって、「わたし」の語りを読み手に信頼させたのである。そうしておきながら、「わたし」の語りの所々を矛盾させて書いている。読み手にとって、信頼できる語り手であるはずの「わたし」の語りを矛盾させることで、「きりぎりす」は妻が性格の変わってしまった夫を批判する話では無くなるのである。「きりぎりす」が、俗な夫を批判する内容では無いとなると、読み手は「あなた」では無く、「わたし」の語りが信頼出来るのかという点に目を向けるだろう。
 本論では、「わたし」の語りの矛盾はどのような所に見られるのか。また、「きりぎりす」の主題が「反俗精神」でも無く、妻が夫を批判するのみの話では無いとすると、「きりぎりす」をどのように解釈することが出来るのか。

その二点について、作品の内側と外側から考察する。
 
 
 
 
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