京都ノートルダム女子大学人間文化学科

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人間文化学科

 

 

京都フィールドワーク

   

「名所図会」読み合わせ・方広寺大仏殿跡見学・文楽鑑賞会

 

専門演習(出版文化論ゼミ)
出版文化史(授業)
担当者 岡村敬二

 
   
   

蒸し暑い京都の、それも祇園祭のさなかではあったが、2008年7月16日(水)の定例ゼミの時間に、「秀吉史蹟ツアー 第一弾」と称して、方広寺・豊国神社・耳塚あたりを巡検した。

 

このように、その昔には花園あたりからも大仏殿の屋根が見えたといわれる方広寺界隈を探索しようということになったのは、今年度前期の専門演習(ゼミ)で『淀川両岸一覧』を読んでいて、ある学生の担当がこの部分で、彼女が発表にあたっていくつか資料を集めて提供してくれたことによる。資料を読んでみると、実際に史蹟の現場に出かけてみたくなるというものだ。そして出かけてみると、資料の上ではわからなかったことなどまさに皮膚感覚で体得できて実に意義深い。

 

また、3回生のゼミが始まった4月の段階から予定していたことだが、前期のうちに文楽の鑑賞にも出かけることになっていて、それが7月31日にあたっていた。この演目が、「鑓の権三重帷子」で、たまさか最終の段が「伏見京橋妻敵討の段」、ちょうど淀川登り舩の着船する伏見港が舞台、これも『淀川両岸一覧』で学生が読んでくれたパートにあたっている。この伏見港は、昨年度のゼミ卒業記念フィールドワークで歩いたところでもある。
http://www.notredame.ac.jp/ningen/class/class_4_1.htm

 

さらに、この伏見京橋の「妻敵討」というのは、昨年度の出版文化史の授業で学生といっしょに読んだ「かわら版」にも出てきて(「大坂中之島敵討の次第」)、舞台は大坂中之島と異なるが、妻敵討が題材になっており、今回はわたしの授業の素材がうまくかさなったことから、少しこのことを、岡村の出版文化関係の授業風景として、報告してみたいと思う。

 
 
 
 

大仏前交番のこと

京音の夏は暑い。祇園祭のころは梅雨明け前のことさら蒸し暑い時期である。しかしながらわたしたち岡村ゼミ一行は、日除け・軽快なシューズ・水分補給用のお茶など万全の体制で、大学近くの北大路バス停で待ち合わせをして、約20分、三十三間堂前に到着した。この交差点の北東角に交番がある。その名も「大仏前交番」である。ちょうと勤務中の若いおまわりさんに、「大仏前」の名称はいつから?と聞いてみる。しかしながら、わからない、と何の興味も無い様子ではあった。交差点に架かっている道路標識は、「三十三間堂前」。まあ観光地だし妥当なところか、と思いながらも、この看板は「大仏前」でもよいのではないかと余計なことを考えた次第であった。けれどもフィールドワークに出ると、こうしてその土地のさまざまなひとに物を尋ねてみるということは大切なことだ。思いがけないいことを教えてもらったりする。今回の「取材」では、勤務のおまわりさんは、どうもそうした歴史的なことには興味がなさそうだ、ということがとりあえずわかったということか。

七条大和大路の交差点角の「大仏前交番」
七条大和大路の交差点角の「大仏前交番」

今回の見学箇所

今回予定していた見学コースの予定は次のとおりであった。

方広寺(鐘・大黒天堂・大仏殿跡)⇒ 豊国神社(巨大石垣・唐門・太閤御馬塚・宝物館)⇒ 耳塚 ⇒ 大仏餅屋跡 ⇒ 三十三間堂境内および南大門

本来なら、阿弥陀ケ峰の豊国廟に登らねばならぬところだが、今回は季節がらもあって見送った。第二回以降の「秀吉ツアー」では登山を敢行しよう。京都の街が一望できて気持ちがよい。

 

方広寺

方広寺は、「国家安康 君臣豊楽」という鐘の銘文により家康が難癖をつけて豊臣家を滅ぼしたという歴史事象で有名である。この大仏や大仏殿はじつに数奇な運命というべきか、建造するたびに地震や火災で焼失の憂き目にあっている。まずこのことを略年表で示しておくとと次のとおり。

方広寺大仏関連略年表

1585(天正13)年 大仏殿建立にともない大名に
材調達を用命、当初は東福寺近傍。
1591(天正19)年 蓮華王院(三十三間堂)北側に変更された大仏殿の立柱式挙行。御土居も。
1593(文禄 2)年 方広寺大仏殿上棟。95年ほぼ完成、秀吉の父母の法要を大仏経堂で開催。
1596(慶長元)年 大地震、大仏崩壊。
1598(慶長 3)年 善光寺の如来を迎えることとして仏像到着、なれど秀吉の容態が悪化し8 月に返還、同月秀吉死去。大仏開眼供養。
1599(慶長 4)年 秀頼大仏復興を決意。蓮華王院南大門・西大門をめぐる太閤塀を築造。
1600(慶長 5)年 大仏殿再建はじめるも02年鋳造途中の大仏出火。
1608(慶長13)年 大仏殿再興を決定、11年地鎮祭
1612 (慶長17)年 大仏おおむね完成。
1614(慶長19)年 梵鐘も完成、家康が異議をさしはさむ。大阪冬の陣、夏の陣で豊臣家滅亡。
1662(寛文 2)年 地震で大仏の一部壊れ木造に。
67年木造仏完成
1798年(寛政10)年 落雷により大仏殿本堂焼失、大仏も焼失。その後寄附により木造半身造営。
1973年(昭和48)年 火事によりこの木造半身の大仏像も焼失。

 
 

暑い日でもあり、まず元気なうちにとおもい、明治30年(1897)5月公開展示のはじまった京都国立博物館前で記念撮影。片山東熊設計による見事な建築で、入館するなら少し遠くても西門からこの東熊設計の本館に向かって入るべきであるとあらためて学生に助言。またこの博物館は、本学がキャンパスメンバーズになっているので、学生証提示で入館ができるはずである。

片山東熊設計の京都国立博物館前
片山東熊設計の京都国立博物館前

 

さて方広寺の見学。大黒天堂と梵鐘をみる。略年表に示したように、梵鐘や大仏は数奇な運命をたどって現在にいたっている。鐘は立派なものであり、「国家安康 君臣豊楽」の文も白くかこってあって、歴史の激動に思い及ぶ。

このあと、公園になっている大仏殿建立跡に行く。いかに大仏が巨大であったかが実感できるというものだ。

方広寺の梵鐘、「国家安康 君臣豊楽」の銘文をみる
方広寺の梵鐘、「国家安康 君臣豊楽」の銘文をみる

 
 
 

豊国神社

次は豊国神社。秀吉は死後東山の阿弥陀ヶ峰に埋葬され、豊国大明神の神号まで下賜となり、1604年の七回忌臨時祭では、豊国踊りや風流踊りが舞われた。しかしながら「国家安康」の鐘銘問題で豊臣家は滅ぼされ、それと同時にこの神号も廃されることになり、社も荒れるにまかされた。そして明治の世になり、豊公再評価の機運のなか1873年(明治6年)別格官幣社に配せられ、1880年(明治13年)には方広寺大仏殿跡地の現在地に豊国神社として復興となった。本殿前の唐門は国宝である。

豊国神社では、宝物殿うらの、太閤御馬塚をまず見学し、宝物殿で文物をみる。入口に『豊国祭礼図屏風』があり、左隻には大仏殿前で舞い踊っている庶民の様子が描かれてあるが、そこには「上京」「にしちん〈にしじん〉小川くみ」」とあり、当時の京の繁華なあたりもよく知れるものである。

 

神社唐門前、この唐門は国宝である
神社唐門前、この唐門は国宝である
 

耳塚

豊国神社をあとにして耳塚にむかう。これは、太閤秀吉が朝鮮出兵をおこなったときに、命じて敵兵の耳や鼻を切って持ち帰らせたものを埋めて塚にしたものともいわれる。平成2年4月には慰霊のための法要も行われ、春の修学旅行シーズンには、韓国旅行生も多く訪れる。


耳塚(『淀川両岸一覧』本学藏291.6/Aka)
耳塚(『淀川両岸一覧』本学藏291.6/Aka)
 
 

大仏餅

このあと、『都名所図会』に挿絵の出る大仏餅のお店の位置を探しながらしばらく歩く。また田中緑紅の「大仏餅」???の写真説明には、豊国神社に向かい合って本町通りにある、と記載されていて、この緑紅の写真の時期までは存在したわけであり、おそらく本町通り正面の角あたりであったのだろう。

「洛東名物大仏餅」(『都名所図会』216.2/M2/1)
「洛東名物大仏餅」(『都名所図会』216.2/M2/1)

翻刻:

洛東大仏餅の濫觴は則方広寺大仏殿建立の時より此銘を蒙り売弘ける 其味美にして煎に蕩ず灸に芳して陸放公が炊餅東坡が湯餅にもおとらざる名品也 唐破風作の額標版は正水の筆にして代々ここに住して遠近に其名高し

大仏餅を瀧本坊へをくるとて

安楽庵伝策
白妙の雪のはだへをもちながらかちんといへる色のふかさよ

返し

瀧本坊猩々翁
白妙の雪のはだへもこれほどにひとのもちゐてせもひつくなは

 

太閤塀と南大門

さて、この正面の通りから三十三間堂の太閤塀から南大門へと向かう。この太閤塀は、慶長元年の大地震で大仏が崩壊したあと、慶長 4年に豊臣秀頼が大仏復興を決意し、三十三間堂の敷地を囲むようにして南大門・西大門をめぐる塀を築造させ、方広寺の一大境内にしようとしたものでのである。

この南大門は、今では単なる車道の門の風情ではあるが、こうして方広寺の数奇な歴史をたどってきたあとにくぐってみると、その歴史をもういちどたぐり寄せた気持ちがして、感慨ひとしおである。やはり現地を歩いてみるとその物学びも、いっそう楽しいものであると実感できる。

太閤塀に続く南大門にて
太閤塀に続く南大門にて

 
 

文楽鑑賞会

このように、今年度前期のゼミで『淀川両岸一覧』を、原文と翻刻文とを照らし合わせながら読み合わせた、その方広寺大仏あたりと見学したのだが、この『淀川両岸一覧』では、伏見港が船旅の終点であり、この伏見京橋あたりの賑わいについてもともに学んできた。そして、7月31日の文楽の鑑賞会にいたったのである。

演題の近松門左衛門作「鑓の権三重帷子」では、ちょっとした行き違いと感情のもつれから誤解を生じて妻敵討ちに遭って討たれるという切ない物語に仕上がっている。この妻敵討というのは、不倫をした自分の妻を討ちとることをいい、親兄弟や上役の敵討ちとはいささか趣を異にするが、当時は、これも認められていた。

じつは、この妻敵討ちについては、うまい具合に、前年度の「出版文化史」の授業で、かわら版を取り上げたときに、「中之島敵討ちの次第」というかわら版を取り上げたことがあり、当時の敵討ちの実情や妻敵の説明もしたところであった。このときに取り上げた「大坂中之島において敵討之次第」を、大阪府立中之島図書館の出版掲載の許諾を得てここに掲出して書き下してみる。

かわら版「大坂中之島敵討之次第」(大阪府立中之島図書館所蔵)
かわら版「大坂中之島敵討之次第」(大阪府立中之島図書館所蔵)

翻刻:

四国去る御大名様御家中田川徳左衛門留守中に、妻同国千葉村多五郎と申す者密通いたし、当四月十一日国元を立のき候に付き、右徳左衛門所々方々と相尋ね候うち、大坂中の嶋にて見当り、其の場において首尾よく本望とげられけるは、ゆゆしかりける次第なり

 

こうして学んだあとに、今回の「鑓の権三重帷子」の最終の段が妻敵討ちであり、その舞台が、『淀川両岸一覧』で読み合わせをおこなった「伏見京橋」であったというわけである。

 


大阪国立文楽劇場前にて
大阪国立文楽劇場前にて

この舞台がはねたあとで、道頓堀を歩き、今は店終いとなり人形も「旅」に出ているとされるくいだおれの跡を通って、法善寺横丁の願掛け不動さんにお参りし、梅田にもどって、大阪名物お好み焼きを皆で食しながら、今回の文楽の演し物をあれこれと語りあったことであった。

今回は、原文を含めた資料の講読、関連資料を探す、実際にその資料の史蹟に出かけてみる、さらにそれが継承され残されてきた芸能を実際に鑑賞してみること、こうしたことがうまく合致した有意義な学びのフィールドワークとなった。

今後もこうした学びを学生諸君とともにおこなっていきたいと思っている。

(2008/08/02記)

 
 
 
 
 
 
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