京都ノートルダム女子大学人間文化学科

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人間文化学科

 

 

京都フィールドワーク

   

2008年12月6日(土)京都東山フィールドワーク

 
 

京都大学人文科学研究所漢字情報研究センター(旧東方文化学院京都研究所)→神楽岡→吉田山大元宮→宗忠神社→真如堂→元真如堂→法然院→散策終了後に懇親会

 今回の「東山の史蹟フィールドワーク」は、大学院人間文化専攻の第三回「〈文化の航跡〉研究会」として実施した。人間文化専攻の主催であったが、学部の学生諸君にも広くよびかけたところ、一回生から院生まで、また英文学科や心理学部の学生も参加して、教員3名を加え、一行15名とあいなった。教員が各箇所で説明をしながら、洛東の建造物や寺社、古木や墓所を半日かけて巡覧した。
 今回は、これら歴史事象に関心の高い学生諸君が集まってくれることを考えて、当日配布の資料も、地図や名所図会、墓所配置図や文学作品抄録など、A3で12ページのものを用意した。フィールドワークというのは、学びの手だてであり、また研究でもあること、また資料を見ながら歩くことでいっそう理解が深まり、ますます楽しいものとなる、という相乗効果を実感してくれればよいが、と考えながら集合地点である銀閣寺道に集った。
 なお、このフィールドワーク各史蹟に関しての説明が、「〈文化の航跡〉研究会」第三回「東山の史蹟フィールドワーク」 にもありますので、そちらもご覧ください。

 

 
旧東方文化学院京都研究所

 当日の集合地点である銀閣寺道の交差点には琵琶湖疏水の分線が流れている。第一疏水とおなじく明治20(1888)年に着手、23年に竣工した。疏水分線をしばし下り、京都大学人文科学研究所漢字情報研究センターに向かう。この疏水は、銀閣寺道の大銀食堂前で南流する白川の流れと立体交差をしているが、それは京都の地形に反するように北上して、本学近くの洛北高校南から賀茂川へと流れていく。だからここで「疏水を下る」という書きようも正しいのだろうが、いささか奇異な感じがぬぐえない。そんなことを簡単に説明しながら、人文科学研究所漢字情報研究センターへ。
 この建物は、東方文化学院京都研究所として昭和4年に建てられた。それは、明治33(1900)年の義和団の乱賠償金をもとに展開された対支文化事業が行き詰まり、東方文化事業として東方文化の研究を持続させるために日本国内に設置されることになった研究機関であ、東京研究所とともに設けられた。建物は武田五一およびその弟子東畑謙三によって設計されたスペイン風の様式で、住宅街に在るのだがそれがよく環境にマッチしていて圧巻である。そこには中庭があってその周りを建物が囲っているが、この中庭には東方文化学院の理事で京都研究所の初代主任(所長)狩野直喜先生の胸像がたつ。当日は土曜日で残念ながら構内には入れなかった。またの機会にぜひともと思う。なおこの狩野直喜の墓所は黒谷金戒光明寺の文殊塔の北にある。
旧東方文化学院京都研究所
旧東方文化学院京都研究所


 
神楽岡

 センターからもう一度今出川通りにもどったが、ひとり遅れて参加する学生がいてここで合流した。ずいぶん寒い日だったので、このちょっとの時間に、銀閣寺道交差点に昔からあるキャンデー屋さんで「大文字焼き」と称する大判焼きを買ってきて皆で食べた。少しだけ暖まることができて、ここから神楽岡通を南へ。
 通りの途中に「茂庵」への登り道があり、ここで出村嘉史「景観としての東山−近代における神楽岡地域の再構成」(『東山/京都風景論』 昭和堂 2006年)で学んだことを説明した。出村によるとこの神楽岡周辺では大正末期から宅地開発が進み、土地の所有者となった谷川茂次郎(谷川茂庵)が山上付近に別荘 吉田山荘を造り、茶会を頻繁に開催したのだという。また住宅地については昭和初期から吉田山東斜面において宅地開発がすすみ、二階建て木造家屋が建てられたとも。それは屋根が銅葺きの住宅で、今では多くが立て替えられたが、三十数年年前にはその銅葺き屋根がずいぶんそろった住宅であった。我々はそれを銅御殿(あかがねごてん)と呼んだものだった。今回の終着点となる法然院の道筋から西に吉田山を望んだらその様子がよくわかるだろうと語らいながらさらに神楽岡通りを南下する。
茂庵への登り道より大文字を望む
茂庵への登り道より大文字を望む

 

大元宮から吉田神葬墓地へ

 神楽岡(吉田山)は、神々の住まう岡ということで、皇室の御陵も多く存在する。また足利尊氏の時代には戦乱の地となったりもしたが、江戸時代には遊楽の地であったことは、『花洛名勝図会』にもでている。そこには、四方の風景がよくて桜やつつじなどが咲き乱れ、また秋の木の葉の紅葉するころにはキノコ狩りに多くの人が出かけたとある。
 大元宮は、室町時代唯一神道をとなえる吉田兼倶が創祀したもので、延喜式神明帳に記載された式内社3132座の神を祀る。節分会がよく知られるが、この大元宮は毎月一日になかに入ってお参りをすることができる。
 ずいぶん寒くなり、この吉田山を西に少し降りて吉田神葬墓地で南画の田能村直入の墓所などをめぐる。直入は田能村竹田の弟子で養子になり、また一時大坂にも住まわった。竹田の墓所は大阪夕陽丘口縄坂の浄春寺にあり、以前にわたしが勤務していた大阪府立夕陽丘図書館時代には江戸期天文学者麻田剛立墓所とも、よく墓参巡りに出かけたところだ。
 この墓地は南と西が開けていてずいぶんと見晴らせる。東の大文字もきれいに望める。この墓所の出口付近で、近くにお住まいのご老人に呼びとめられ、どういう会かと尋ねられる。事情をお話しすると、氏は学生諸君にこの地点からの遠景を説明してくださった。このようにその土地に住まう人たちと出会って話ができるのも、フィールドワークの楽しみでありまた意義でもある。
吉田神葬墓地
吉田神葬墓地

 

宗忠神社から真如堂へ

 神葬墓地から宗忠神社の参道に抜けて宗忠神社へ。この社は黒住宗忠の黒住教になるもので、祭神は黒住宗忠と天照大神である。この参道から真如堂の山門を望む景色がじつにすばらしい。近年は少し木々が茂りすぎて、山門が望みがたいが、紅葉の季節に真如堂がたいそうにぎわっていても、ここまで来る観光客はあまりいない。この石畳の参道がまことによいのだ。
 真如堂の門前までくると紅葉をめでる観光客でいっぱいである。ここで先にあがってきた吉田山への登り口から東側に続いている、東北院、極楽寺、芝薬師、迎称寺の『花洛名勝図会』の挿絵および真如堂門前の挿絵を見ながら説明を試みる。三丁分の図版を並べるとそれらはそのまま連続して描かれていて当時の様子が推し量られる。この挿絵では、先に吉田山大元宮へと登ってきた道は、「吉田社道」として示されていて、この切通しの感じが今昔あまり変わらないような様子にすこし驚かされる。真如堂奥の会津藩殉難者墓地から黒谷金戒光明寺に続く道筋は、「黒谷山道」として示される。『都林泉名所図会』の「吉田山遊宴」の挿絵では、大元宮の前に茶店も出てそのにぎわいがよく表されているのだが、この『花洛』の門前の挿絵にも、多くの茶店が並んでいて、この門前の様子や景観は、いまとあまり変わっていないようにも思われる。こうして挿絵をみながら今昔を考え合わせてみるのもたいへん楽しく勉強になる。
 さて一行は真如堂にお参りして北参道から、『花洛名勝図会』の図版には元真如堂道と示される元真如堂へ。
宗忠神社
宗忠神社


 
元真如堂へ

 真如堂を北側へ出て、白川通りへ向かう狭い坂道沿いには多くの檜が見られ、元真如堂が文字通り檜の伝承にふさわしい場所であることがすでに坂道を下る途中から窺われた。
 元真如堂は通称で、正式には換骨堂である。『花洛名勝図会』も見出しは元真如堂としているので、通称の方が通りがよいのであろうが、立地の面からもあるいはその本堂などの実に地味な佇まいからも、真如堂にゆかりのある寺とする方がわかりやすいのかも知れない。それほど換骨堂は人目につかないひっそりとした寺であった。『花洛名勝図会』の半山の挿絵もその雰囲気を見事に描いているのだが、それは別の見方をすれば、往時の姿そのままが現在まで遺されている寺ということだろう。
 この換骨堂は、先ほどふれたように、「尺余の檜一千本、一夜に生ずる所有るべし」と高僧の夢に告げられた場所という由来が名高いが、千本とまでは行かないまでも多くの檜が現在でも寺の周りに見られる。竹村俊則がその著書『京の名花・名木』中で「元真如堂のヒノキ」として言及している所以である。
 換骨堂を訪れる前にわれわれは神葬墓地から宗忠神社を抜ける道を歩いたが、その道すがら多くの檜が見られたところから推測すると、いわゆる換骨堂の檜伝説もこの界隈一帯の植生から生じたものかと思われた。
 本堂脇には、『花洛名勝図会』にも書かれている井戸も遺っている。京に醍醐水と呼ばれる名水は他にもあるが、この換骨堂の井戸もその由緒に醍醐水と呼ばれるようである。それほどに清らかな水をたたえた井戸であったのだろう。
 檜伝説を契機に、さらに『花洛名勝図会』によってその由緒を初めて知った小さな寺であったが、上品で奥ゆかしいその姿に古都のもうひとつの風情を垣間見る思いであった。
 そして我々はこの日最後の訪問先の法然院へと向かった。
元真如堂の井戸
元真如堂の井戸

 
法然院

 法然院に着く頃、陽はすでに暮れかかっていた。境内の風情を愉しむには幾分遅い時刻だが、今回の目的は掃苔(墓参)である。多くの著名人の墓所から、近代の文学者、谷崎潤一郎、稲垣足穂の墓に詣でた。
 谷崎潤一郎は、1886年東京日本橋に生まれ小説家となったが、1923年の関東大震災を機に関西に移住した。 1946年には南禅寺下河原町、1949年は下鴨泉川町に居を構え、いずれも潺湲亭(せんかんてい)と名づけた。谷崎松子夫人の『倚松庵の夢』によれば、1965年に亡くなる前に法然院を墓所と定めていたという。自然石の墓には「寂」と谷崎の手による字が彫られ、傍らには紅枝垂の桜が植えられている。これも谷崎の遺志だった。晩年の谷崎は高血圧症を患い避寒のため熱海で過ごすようになっていたが、京都への変わらぬ愛着が法然院を墓所に選ばせたのだろう。その趣は作品同様に、谷崎の美意識に彩られている。『細雪』の「年を取るにつれて、昔の人の花を待ち、花を惜しむ心が、決してただの言葉の上の「風流がり」ではないことが、わが身に沁みて分るようになった」という幸子の思いは谷崎の感懐でもあったろうか。
 稲垣足穂は、1900年大阪の船場に生まれた。1923年『一千一秒物語』を刊行し、当時のモダニズム運動の潮流に呼応して、天体や機械をモチーフとした独自の心象世界を表現した。1950年に篠原志代と結婚して京都に移り、1968年『少年愛の美学』で第一回日本文学大賞を受賞する。1977年、癌で入院した病院で急性肺炎を併発し死去した。その墓は「稲垣足穂 稲垣志代」と夫婦の名前が並んで刻まれた簡素な造りである。そこには、紙模型の飛行機が供えられており、飛行機を愛した足穂を偲ぶ人が今でも訪れるようだ。

 墓所は、死者の思いを遺し、死者に対する思いを蘇らせる場所である。無常の世ではあろうが、自分につながる過去を思い起こす場所も必要であろう。そんなことも思ってみたが、法然院を後にして宴の場に向かう頃には、すっかり暮れた夜の寒さに忘れてしまった。
法然院の谷崎潤一郎墓所
法然院の谷崎潤一郎墓所
 
 
 
 
 
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