京都ノートルダム女子大学人間文化学科

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人間文化学科

 

 

人間文化学科からのお知らせ

 
 

京都ノートルダム女子大学人間文化学科・人間文化専攻共催

報告 - 第五回 公開講演会を終えて

 

「比較古都論」(町のなりたち、人の往来) 平成21年6月6日(土)

 

 

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講演2服部昭郎教授 講演 『古都エディンバラの「ジーキルとハイド』 

平成21年6月6日(土曜日) 13:00〜15:30

報告【1/2】 実施報告TOPへ
 
講演中のアンドレ・アンジェイ非常勤講師
ジョン・ケイの銅版画による
ブロウディの肖像。(1788)

「ジーキル博士とハイド氏」のモデル

1886年に出版されたスティーヴンソンの著名な小品『ジーキル博士とハイド氏』 は歴史上に実在した人物をモデルとして書かれたと言われている。ただこれは作者自身のはっきりした証言などはなく、実証性に乏しい言わば俗説である。しかし今日このモデル説はいろいろなところで根強く生き続けているのである。

そのモデルはディーコン・ブロウディことウィリアム・ブロウディなる人物とされる。『ジーキル博士とハイド氏』がロンドンを舞台とする小説であることは改めて言うまでもないが、ブロウディ自身は小説が発表される130年ほど前、ちょうど18世紀の中ごろスコットランドの古都エディンバラに住んでいた人物である。エディンバラは作者スティーヴンソンの生まれ故郷であることはこれまた言うまでもない。

ディーコンとはスコットランドで職人たちの組合の長を意味する肩書きであった。その社会的地位は高く、町の行政にも深く関与したと言われている。実際このモデルと考えられているブロウディは今日の市議会議員にあたる公職にも一時ついており、当時のエディンバラの名士のひとりであったことは間違いないであろう。ブロウディは「人柄がよく、家具職人としての腕もたしか、そして実にうまい歌い手」であり「多くの人々がブロウディを食事に誘った」と、スティーヴンソンも自ら随筆『エディンバラ』の中で町の伝説のひとつとして書き記している。※1ただ、この人物がエディンバラの歴史にその名を刻むことになったのは、優美なキャビネットやテーブル、あるいは時には棺桶を後世に遺した名物家具職人組合長としてではなかったのである。

彼には隠されたもうひとつの顔があった。実はブロウディは窃盗団の一味でもあった。腕利き家具職人にとってはお手の物、ブロウディは目当ての建物の合鍵を巧みに作り、夜を待って難なく侵入する巧妙な手口で盗みを繰り返していたのである。しかし、後ほどくわしく述べるが、1788年3月にスコットランド税務局を舞台とした窃盗事件でブロウディはついにその馬脚を露すことになる。町の名士ブロウディ組合長がこともあろうに連続窃盗事件の犯人であるとはエディンバラの大方の人が予想もしなかったことであった。彼が善良なる市民としての顔以外に誰も知らない闇の世界の顔もあわせ持つ人物だったことを町の人々は大いに驚いたことは言うまでもない。スティーヴンソンも先の引用に続いて、「この男が夜には別人となってそれぞれの家に舞い戻ってくることに驚かない者はいない」とも書いている。※2そしてこれを契機にブロウディはその悪名を以てエディンバラの歴史に記されることになり、奇怪なふたつの顔を持つまさに伝説的な人物となったのである。

小説『ジーキル博士とハイド氏』が人間の二重人格性を怪奇小説風に描き、「ジーキルとハイド」の名前を生みだした経緯はあまりに有名であるが、その二重人格性が作者スティーヴンソンと同郷の実在人物ディーコン・ブロウディの実像にぴったり重なり合うところが上のモデル説の土台となっている。ディーコン・ブロウディもまた、「まったく安全な身の上で、あらゆる人びとに尊敬され、愛され、富裕で、自宅の食堂には食事が用意されていた」が、盗みが発覚するに及んで「人びとに狩り立てられるお尋ね者で、宿なし」同然、「待ち受けているのは絞首台」だけの境遇となる、相反するふたつの顔あるいはふたつの人生を生きた人物だったのである。※3

ところでブロウディが住んでいた18世紀中ごろまでのエディンバラは、今日オールドタウンと呼ばれているごく狭い地域にあらゆる階層、あらゆる職業の人々が密集して暮らしを営んでいた町であった。それは言わば中世の面影を色濃く遺す超過密都市であったのである。したがって、先ほどふれたスコットランド税務局事件をきっかけにブロウディの窃盗犯としての隠された顔が露見した時、町中の路地という路地が家具職人組合長ブロウディの話題で騒然とした空気につつまれた様子は今日でも想像に難くない。人々に親しまれ、あつい信頼を受けていた町の名士は一夜にしてスキャンダルの的となったのである。

しかしブロウディ本人は人々の喧しい噂声をよそに行方をくらまし、その絶えた消息がさらに人々の関心を煽ることになった。結局3ケ月に及ぶ逃亡の後ブロウディはオランダのアムステルダムでその身柄を拘束されることになるのだが、エディンバラでのその後の裁判も人々の強い関心を引いたのは当然と言えば当然である。このようにエディンバラにおけるブロウディ伝説の起源はブロウディの奇怪なるふたつの顔の発見にあったのであり、これがおよそ130年後にエディンバラ出身の作家スティーヴンソンによって描かれた「ジーキルとハイド」像のモデル説に繋がることになったのである。

もちろんこのような二重人格性以外に「ジーキルとハイド」とディーコン・ブロウディの連想を後世の人々に促す材料は他にもあった。上の引用にもあるようにスティーヴンソンン自身がこの悪名高きディーコン・ブロウディへ特別の関心を示していること、あるいはタイトルにブロウディの名前を冠した劇作品を手がけている事実などである。※4また小説『ジーキル博士とハイド氏』誕生に関するスティーブンソン夫人の証言もよく言及されるところである。夫人によれば、この小説は当時のフランスの新しい心理学とディーコン・ブロウディ伝説から着想を得て出来上がったそうである。※5

しかしこれらはさしずめ周辺情報に過ぎず、ブロウディこそ間違いなく「ジーキルとハイド」のモデルであるとする確かな証拠とはなり得ない。ブロウディと「ジーキルとハイド」の連想はあくまで読む側の恣意的な連想であって、やはりこのモデル説は確証を欠く俗説にとどまるほかないのである。

ところが、先にも言ったように、このように確証がない俗説であるにもかかわらず、小説『ジーキル博士とハイド氏』 がブロウディをモデルとして書かれたとの説は、今日一種の通説となって広く受け入れられているのも事実である。例えばそれは、ブロウディとスティーヴンソンふたりの故郷である古都エディンバラを訪れる多くのツーリスト向けに用意されている町の観光案内書の中で、ブロウディこそ「ジーキルとハイド」のモデルであるとまことしやかに語られているだけではないのである。このモデル説を下敷きとしたブロウディ論や『ジーキル博士とハイド氏』論は今日でも少なくないのである。※6

いったいディーコン・ブロウディとはどのような人物であったのだろうか。そしてブロウディ事件とはどのようなものだったのだろうか。我々には幸運にもブロウディと同時代人銅版画家ジョン・ケイのブロウディ肖像画が遺されている。 

 

ブロウディの実像

18世紀のごく初頭に発刊されたスコットランドの古都エディンバラの地元紙「夕刊エディンバラ新報」(Edinburgh Evening Courant )は、『ロビンソン・クルーソー』で名高いダニエル・デフォーが一時期その編集に携わっていたことでも歴史上にその名を遺している古い地方新聞のひとつである。その新聞が1788年3月13日(木)付で前日に出されたエディンバラ地方検察官ウィリアム・スコットの名による概略次のような「懸賞金付き御尋ね者」広告を掲載している。

 

 

懸賞金200ポンド

先ごろのスコットランド税務局窃盗事件関与の嫌疑がかかるエディンバラ市民にして著名な家具職人ウィリアム・ブロウディ容疑者はエディンバラからすでに逃亡かあるいは依然市内に潜伏かのいづれかで杳としてその行方が知れない。この容疑者をエディンバラ裁判所に生きたまま突き出すか、あるいは本日より1ケ月以内に同所に突き出すことが可能な見込みのもとその身柄を確保した者に対し150ポンドの報酬が支払われる。また有罪判決が出たあかつきにはその報酬にさらに50ポンドが加えられるであろう。

エディンバラ地方検察官 
ウイリアム・スコット

 


「懸賞金付き御尋ね者」広告を掲載している「夕刊エディンバラ新報」
(1788年3月13日号)。エディンバラ市立図書館本館エディンバラ・ルーム所蔵

 

 

税を扱う役所に盗みに入ること自体現代の人々にとっていささか奇異に感じられるところかもしれないが、当時は現金で収められた税金が一時的にも保管されたりすることがあったようで、犯人たちは事情を熟知した上でそれを狙った犯行だったのである。実はスコットランド税務局は歴史上いろいろな場所にオフィスを移動しているのであるが、この事件がおこった当時は町の東寄り、いわゆる町のメインストリートであるハイストリート(現在愛称ロイヤルマイルで呼ばれている)が東の端でホリルード宮殿へつながるちょっと手前のキャノンゲイトのチェッスルズ・コートにあった。

講演中のアンドレ・アンジェイ非常勤講師
ブロウディ一味が押し入ったキャノンゲイトにあったスコットランド税務局
(ブルース・ヒューム の作品。ラフヘッド「ブロウディ裁判」所収)

講演中のアンドレ・アンジェイ非常勤講師
一時スコットランド税務局がおかれていた建物は現在まで遺っている。ヒュ
ームの絵は20世紀初頭出版のものであるが、周りの様相はいささか異なるものの、
建物の外観自体は絵に描かれているのとほとんど同じまま今日まで遺されている。
(チェッセルズ・コート  エディンバラ キャノンゲイト)

コットランド税務局は歴史上いろいろな場所にオフィスを移動しているのであるが、この事件がおこった当時は町の東寄り、いわゆる町のメインストリートであるハイストリート(現在愛称ロイヤルマイルで呼ばれている)が東の端でホリルード宮殿へつながるちょっと手前のキャノンゲイトのチェッスルズ・コートにあった。

この広告記事には概略次のような「人相書」も添えられている。

 

人相書

ウイリアム・ブロウディ。身長160センチ余り年齢48歳。 だが実際の年齢よりは若い印象を与える。肩幅は広いが腰回りは細身。大きな褐色の目、黒く大きな眉。右目下に切り傷跡、目もと近くでは未だに傷口がふさがっていない。片目が斜視気味でユダヤ人らしき相貌を見せる。顔は土気色。明瞭にゆっくりしゃべるが、あいた口の中でまき舌の動きが見えるような独特の口と唇の動かした方。黒髪を頭の後では編んで束ね、顔の側面では両の頬あたりまで垂れ下げている。先が薄茶色の頬髯は顔の前にこんもり突き出ており、側面では縮れている。つるつるした幅広い額。歩幅大きく踵で地面を叩き、内股で歩く独特の歩き方。普段から杖をたずさえ、ふんぞり返って歩く姿は尊大な印象を与える。脚は短いが足首より下はがっちりして大きい。太いふくらはぎは膝元でかぼそくなっているので、歩く時に曲がる膝がどことなく弱々しい。黒の上着、チョッキ、短ズボンと靴下、それに縞模様の大きなオーバーコートを羽織る。靴の締め金具は銀製である。

 

書き手は人物の特徴を印象づけるためか二、三の微細な描写に特別なこだわりを示していて、写真のない時代の人相書とはこういうものだったのかとあらためて感心させられる。それにしても手配された窃盗犯の所作は、その話しぶりといい歩き方といい、よほど独特であったようである。

この記事の中で言及されているスコットランド税務局窃盗事件がおこったのは記事掲載日の5日前1788年3月8日であったが、実はその2年ほど前の1786年夏以降エディンバラでは気味の悪いほど巧妙な手口の窃盗事件が相次いでいたのである。銀行や宝石店、果ては食料品店の玄関ドアが夜半こともなく破られ、金品が盗まれるのであった。いずれの場合も犯人たちが玄関ドアをこじ開けたりした痕跡は残っておらず、その巧妙な手口を町の人々は不思議に思いつつ不安を募らせていたのであった。

後に逮捕され裁判にかけられたブロウディについてその詳細な裁判記録を20世紀初頭に書いたウイリアム・ラフヘッドによれば、先の新聞「夕刊エディンバラ新報」に掲載された犯人情報への懸賞金広告は、1786年に3件、翌年には2件、そして件の事件と同じ年には、つまり犯人たちが逮捕されるまでの約3ケ月間には、実に3件数えられるという。(ただ同じ広告が数回にわたって掲載されている場合もあるので、回数としてもっと多くなるはずであるが。) 今回懸賞金付きで指名手配された被疑者こそ一連の窃盗事件をおこした犯人たちの親分格と目されたウイリアム・ブロウディその人であったのである。

記事中でも触れられているように、以前から家具職人ブロウディは町の人々によく知られた人物であった。彼は腕の立つ二代目家具職人で、町の職人組合の長を務める人物として有名であっただけではない。ブロウディは市政にも深く関与するいわば町を代表する名士のひとりであったのである。先にも述べたように、ブロウディはウイリアムがその本名であったが、町の人々の間では愛称ディーコン・ブロウディで通っていた。ディーコン・ブロウディつまりブロウディ組合長であった。

講演中のアンドレ・アンジェイ非常勤講師
カウゲイトから北向きに望んだブロウディ小路。現在はこの部分は遺っていない。
(ブルース・ヒューム「エディンバラの古き家並」より)

ディーコン・ブロウディの名が当時どれほどエディンバラの人々に親しまれていたかを示すひとつの証拠として、ブロウディの名を冠した「小路」の存在を挙げれば十分だろう。エディンバラの独特の町の構造については後ほどくわしくふれるとして、ここでは数多く存在するいわゆる路地のなかで、ハイストリートから南へ下りカウゲイト(Cowgate) に至るひとつの路地が18世紀の後半ブロウディ小路(Brodie’s Close)と呼ばれていた歴史的事実だけを述べておこう。

路地を下ってカウゲイトに接するあたりに名士ブロウディが父(Francis Brodie)から相続することになる立派な屋敷があり、それにちなんでブロウディ小路なる名が付けられたのである。講演中のアンドレ・アンジェイ非常勤講師従ってこの小路に付けられているブロウディの名は父親フランシス・ブロウディにちなんだものであったが、父の死後家業を継ぎ、その屋敷も相続した息子ウイリアムも父に劣らず町の名士に成長して行ったのである。

次のエディンバラの古地図は1742年にウイリアム・エドガーによって作成されたものである。これはその一部(西側半分)で、ちょうどエディンバラ城から東へ数百メートルほどの地域にあたる。地図の真ん中あたりにアルファベットのZを裏返したような形をした通りがあるが、これがグラスマーケットからハイストリートへ至るいわゆるエディンバラの西の入口である。これは東に置かれていた東の入口と対をなすもので、地形的に西から東へかなりの勾配で下っているので、西の入口を「高い門」、東のそれを「低い門」と呼んでもいた。その西の入口を昇りつめたところがハイストリートで、そこから東へ4つ目の小路がこの地図のキーでは当時有名な裁判官であったカリン卿フランシス・グラントにちなんでカリン卿小路と名付けられている。

講演中のアンドレ・アンジェイ非常勤講師

実はそこにブロウディの父親の屋敷があって後にブロウディ小路と呼ばれるようになるのである。1765年に出たエドガーの改定版地図上では依然としてこの小路はカリン卿小路となっているが、その15年後の1780年に出たエインズリの地図ではこの小路はブロウディ小路と名づけられている。上はエインズリの地図のキーであるが、ローンマーケット南側の小路で17番が与えられている小路がすでにブロウディ小路となっている。

ブロウディの父親フランシス・ブロウディは1708年生まれ。70歳を迎える頃には家具職人組合長の功績によりいわゆる今日で言う市議会メンバーに2度選出されるほどの名士でもあった。エインズリの地図は1780年刊であるが、それはフランシスが2度目に市議会メンバーを務めた最後の年でもあったので、この頃フランシスの存在は名実ともにエディンバラ中に知れ渡っていたのではないかと推測される。妻はセシルという女性で、エディンバラの法律家の娘であった。フランシスの父親や祖父も法律家であったと言われているので、ウィリアムは言わば父方母方ともに法律家を輩出した家系に生まれたことになる。

フランシスとセシルには多くの子が生まれたが、そのうち成人した男子はウィリアムだけで、結果として父親の職業を継ぐことになったようである。子どもから青年に至るまでのウィリアムについては今日ほとんど何も知られていないが、先ほどから幾度もふれているように、成人したウィリアムが受け継いだのは父親の職業だけではなく、家屋敷を含むかなりの財産と組合長の息子としての名誉などで、言わばウィリアムは毛並みの良い職人として衆目の認める存在であったはずである。

しかし不思議なことがひとつある。それはこのウイリアムが事実上(我々の社会通念で言えば戸籍上というべきであるが)存在していないことになっているのである。その経緯について先ほどもふれたラフヘッドの『裁判記録』をもとにまとめてみるとこういうことのようだ。

実は1905年にエディンバラの書籍商リチャード・キャメロンが発見した一冊の聖書が興味深い歴史的事実を我々に知らせる結果となったのである。聖書自体は1722年にエディンバラの著名な出版業者ジェームズ・ワトソンによって出版されたものであったのだが、表紙にフランシス・ブロウディその人の蔵書票が見つかり、もともとの持ち主が判明することになったのである。そしてその聖書中にフランシス本人によるものと思われる一家の家族構成に関する記録が旧約と新約両聖書の間に挿入されていたのである。その記録には自らのことを含め家族全員の誕生日、洗礼日が書かれており、亡くなった者の記録には死亡日までも書きこまれていたのである。

それによってフランシスが1708年生まれであることを我々は知ることになったのであるが、それ以外に妻セシル(ブロウディの母親)は1718年生まれ、彼らの結婚が1740年、生涯に11名の子供をもうけたもののその多くが幼児期に死亡していることも記載されていたのであった。

さらに我々にとって興味深いことが彼の記録中に発見されることになる。すなはち、フランシスとセシルの第一子であったウイリアムに関する記述が消えてなくなっており、その部分は空白となっているのである。現在この末梢はウイリアムの裁判と処刑がエディンバラで行われた1788年に家族の誰かによって行われたものと推測されているが、少なくともそれはフランシス本人でないことは、息子の裁判と処刑の行われた年の6年以前、1882年6月1日に彼は死亡していることから明らかである。

ただウイリアムに関する記録が他の部分に偶然記載されていることも明らかとなった。その記載は1752年に行われたグレゴリウス暦採用に関する記録中に見られるもので、暦の変更に伴う日付のヅレを記載した部分に、第一子ウイリアムの誕生日が1741年10月10日に改められているのである。

フランシスの死亡に関する記載は娘(第10子)のジーン・ブロウディが行っており、その後の家族の記録は1839年に死亡したフランシスの末娘(第11子)ジャコビーナで終了している。ジーン・ブロウディは長らくウイリアムと同居しており、ウイリアムの身の回りの世話をしていた人物であり、ジャコビーナは後にエデインバラの絨毯商マシュー・シェリフと結婚しているが、このマシュー・シェリフなる人物は義兄ウイリアムの裁判で被告の弁護証言を行った人物でもあった。また裁判中で証拠物件としても取り上げられたウイリアムの遺した手紙の中で上の両姉妹の名が見られる。以上がラフヘッドによって詳述されているフランシスの聖書に関わる経緯である。

ところで、ディーコン・ブロウディの肖像画が今日まで遺されているのは我々にとって幸運と言うべきことについては前にも述べた。先ほどの人相書を一読しただけではその人物像の焦点がなかなか合わないところであるが、この肖像画によって実際のディーコン・ブロウディを目の当たりにすることができるのである。

この絵の描き手の名はジョン・ケイ。指名手配されたディーコン・ブロウディと同じ時代にエディンバラに暮していた銅版画家である。ケイは銅版画家として身を立てる人生半ばまでは理髪師であったという変わり種で、生涯に九百点ほどの銅版画を遺している。

ブロウディを描いたケイの作品は3点遺されているが、立像肖像画はそのうちの1点で、ブロウディの裁判に陪審員として法廷に参加したエディンバラの書店主ウイリアム・クリーチの求めに応じて描かれたものである。

クリーチにはブロウディの裁判の顛末を詳細に記した『ブロウディ裁判顛末記』の著書があるが、このブロウディ立像肖像画は銅版画としてその出版物の挿絵に用いられたものである。※7後になってケイの死後出版された『銅版画集』にも収められることになるが、もともとは事件直後の言わば裁判記録速報のために描かれたもので、今風に言えば報道写真に近い性格の肖像画であったと言えよう。

講演中のアンドレ・アンジェイ非常勤講師講演中のアンドレ・アンジェイ非常勤講師
『ウイリアム・ブロウディ裁判顛末記』(京都ノートルダム女子大学図書館蔵)

ところでブロウディおよび銅版画家ケイと同時代人であるウィリアム・クリーチについては少しくその経歴などを記す必要があるであろう。クリーチは18世紀中ごろのエディンバラに住み、書店や出版業を営む傍ら自らも様々な著作を遺した人物としてエディンバラの歴史上夙に名高い文人墨客のひとりである。

ハイストリートにある聖ジャイルズ教会のすぐ脇に建てられていたクリーチ書店は今日ではもうその姿を見ることはできないが、当時はいわゆる文人墨客たちのサロンとしてにぎやかだったようである。その居間での集まりをエディンバラの名士たちは「クリーチ氏の接見」("Creech's Levee")と呼び親しんでいたほどである、とは『エディンバラ今昔』の著者ジェームズ・グランの言葉でもある。※8

講演中のアンドレ・アンジェイ非常勤講師
中央の建物がクリーチ書店があったクリーチ館(Creech's Land)である。
左後方の塔は聖ジャイルズ教会

このクリーチ書店の入っていた建物が以前には、詩人であるとともに様々な出版も手がけた文人アラン・ラムジ(1686-1758. 肖像画家アラン・ラムジの父親)の書店であったこともよく知られている。ラムジはこの書店で、会員制のいわゆる貸本業を営んでいたが、これはスコットランドにおける史上最初の公共図書館と今日では考えられている。

ラムジは1752年にこの図書館機能を持つ書店を手放すことになった。その後を最終的に引き継いだのがクリーチであり、特に彼が単独の経営者となった後は半世紀近くにわたってクリーチ書店はエディンバラの出版界を代表する存在であり続けることになるのである。これはまさにラムジの志がクリーチによって成就したと言ってもよい歴史的経緯ではないだろうか。

さてクリーチであるが、その主著『エディンバラ雑記』(Edinburgh Fugitive Pieces, 1791年初版刊)に挿入されている「小伝記」は概略次のようなものである。

エディンバラの書店主ウィリアム・クリーチは1745年4月21日、エディンバラに近いニューバトル生まれである。その家系をたどるとファイフの名のある農家となるが、決して富裕な家系というわけではなかったようだ。ウィリアム自身の父親はニューバトル教区牧師で、息子と同名ウィリアム。母親はメアリー・ビューリーというイングランドの女性で、貴族院宮内官を代々勤めていたデヴォンシャの名家の親戚筋の出身であった。ウィリアムの父親は人格高潔な人となりで人々から尊敬の念を一身にあつめる牧師であったが、40歳で死去。息子はその時生後数ケ月であった。母親とふたりの姉マーガレットとメアリー、そして乳飲み子のウィリアムが後に遺されることになった。このふたりの姉も1749年に相次いで死去している。

娘ふたりが亡くなった時は家族はパースに居を構えていたようで、ウィリアムは当地の学校にしばらく通っていた。その後間もなく母と子は援助者のはからいもあってダルキースへ戻り、ウィリアムは当時有能と評判が高く、幾多の有為の人材を輩出していたバークリイ氏の学校で教育を受けるようになる。

ウィリアムにとって幸運だったことは、グレンケアン伯爵家の息子達の教育係りであったキルマーノック教区牧師ロバートソン氏から個人的な指導を受けることになったことである。ロバートソン氏はウィリアムを自分の生徒と同じように扱ったのであった。この時のロバートソン氏の厚情に対してウィリアムは生涯感謝の念を抱き続け、深い恩義を感じていたようだ。そしてロバートソン氏のふたりの生徒とウィリアムとは固い友情で結ばれるところとなり、これをきっかけにウィリアムはグレンケアン伯爵家との深い結びつきを得る。

エディンバラ大学を卒業した時は医学の道に進むものと周囲は考えていたが、実際にウィリアムが選んだ職業は書店経営であった。はじめにウィリアムが師事した人物は当時キンケイド・ベル書店を経営していたキンケイドとベル両氏であった。

この書店経営修行中の1764年に母親を亡くす。それ以降キンケイド一家との親交がさらに深まることになる。キンケイド・ベル書店には1766年まで勤め、その後ロンドンへ赴き書店経営についての知識をさらに深めた。欧州各地への旅も経験、オランダやパリを見て回りエディンバラへ帰ったのは1768年であった。またグレンケアン伯爵家の長男とは1770年にも欧州各地を旅している。

1771年にキンケイド・ベル書店が解散されるに及んで、ウィリアムはキンケイド氏の共同経営者となって事業を継続することになる。1773年までこの書店は営業を続けていたが、キンケイド氏が公務多忙となり書店経営から身を引くことになりウィリアムはついに一本立ちとなる。以後40数年にわたりクリーチ書店を隆盛に導くことになった。

書店経営に精を出すウィリアムはスコットランドにおける文芸出版界の中心人物でもあり続ける。そしてイングランドの文人達との交流も深まった。彼が発行した文芸紙「ミラー」と「ラウンジャー」は彼の出版活動の中でも特に注目に値する事業であった。

「ミラー」は1779年1月23日発刊、1781年5月27日まで毎週火曜日と土曜日にクリーチ書店店頭で発売されていた。また「ラウンジャー」は1785年2月5日から1789年1月6日まで発行された。当時両紙は文芸を愛するエディンバラ市民にこの上ない楽しみを与えるところとなっていたのである。

一方ウィリアムはエディンバラにおける社会活動にも活発に参画、1811年から13年にかけては市長職にも就いた。

クリーチ書店は文人墨客のサロンとなり、人々はクリーチ家の居間での集まりを「クリーチ氏の接見」と親しんだ。

若い頃からの神学への関心は晩年まで衰えをみせず、生涯厳格なカルヴィン主義者として熱心な信仰者であった。

親交のあった数多い文人墨客達の中で一際目立った関係は詩人ロバート・バーンズとの交流ではないだろうか。バーンズが初めてエディンバラを訪れた時からの親交だったと言われる。


以上がその伝記の概略であるが、末尾で言及されている詩人バーンズは1787年ウィリアムがロンドンに赴いた折に「ウィリアム・クリーチの不在を悲しむ」を書いている。それは特にふたりの関係を象徴するものとして名高い。
その詩の中でバーンズは「ああウイリーはいない」とロンドンへ赴いたクリーチを懐かしみ、そして

           あのクリーチ氏接見の間の扉から
           哲学者や詩人たちが出てくるのも今は見られない

と「クリーチ氏の接見」にも言及している。

さてクリーチは1788年に1冊の書物を出版している。それが先ほど言及した『ディーコン・ブロウディ裁判顛末記』である。

上に掲載した写真は『ディーコン・ブロウディ裁判顛末記』(第二版)の口絵およびタイトルページである。次に続く目次の末尾には著者クリーチ自身によるものと思われる製本職人への特別の指示がある。それによると著者は銅版画ブロウディ像を口絵としてタイトルの見開き左ページに挿入するように指示しており、その指示通り上の写真にあるような構成となっている。見開き左ページ口絵のブロウディ像にはケイという名と、原画およびその銅版画製作はともにケイ自身によることが記されている。書物のタイトルは正式には『さる3月5日、スコットランド税務局へ侵入、盗みを犯したウィリアム・ブロウディならびにジョージ・スミスに対する1788年8月27日および28日に裁判所で行われた裁判の記録』である。そしてそのタイトルページには、この『ディーコン・ブロウディ裁判顛末記』にはブロウディとスミス両人のポートレイトが掲載されている旨あらかじめ記されているのだが、それがケイによる銅版画をさしているのである。

裁判の内容や経過などの詳しい事柄の記述に先立ち、『ディーコン・ブロウディ裁判顛末記』には序章にあたる部分がおかれている。その末尾にケイの銅版画掲載の経緯がごく簡単に述べられている。

それによると、『ディーコン・ブロウディ裁判顛末記』出版のためケイはブロウディ像を描き、そしてそれを銅版画にして挿絵としたこと、ケイがブロウディ像を描いたのはケイ自身の記憶をもとにしていること、出来上がった像は実際にブロウディをよく知る人々からは実によく似ていると評されていること、そして最後に、銅版画の力量という点では決してよい出来栄えとは言いがたいものの「この像は独学の天才画家の才能を如何なく証明」しているすばらしいものである、と締めくくられている。

銅版画の左奥に格子窓が描かれてあるところから推測すると、ここに描かれているブロウディは恐らく逮捕後のトウルブース獄舎 (Tolbooth) における彼の姿を想像して描いたものであろう。すぐ傍のテーブル上にはサイコロとカードそして鍵の束が置かれている。当然これらの小物類をブロウディが獄舎に持ち込んでいるわけではないであろうから、ブロウディの人となりを暗示する目的でケイによって意識的に付け加えられたいわばブロウディ物語の小道具と考えてよいであろう。言うまでもなくサイコロとカードはブロウディが身を持ち崩し窃盗を働き続けることになる直接の原因のひとつ(少なくともクリーチのひとつの考えでは)である彼の「博打好き」を暗示しており、鍵の束は腕のよい家具職人ブロウディと窃盗犯ブロウディの二つの顔をつなぎ合わせる文字通りのカギなのである。彼は目星をつけた家の合鍵を巧みに作り、夜になるのをまってその家に忍び込んだと言われている。

 

講演中のアンドレ・アンジェイ非常勤講師先ほども述べたが、ケイの数ある銅版画の中でブロウディは3回登場する。ひとつがこのクリーチの『ディーコン・ブロウディ裁判顛末記』の挿絵として製作されたもの、さらにもうひとつは後に窃盗の共犯者となるスミスとの邂逅の場面を想像したものである。ケイはブロウディを描く際、獄舎での像にあるように小物類などを配置してブロウディ像に物語要素を組み入れようとしているが、スミスとの出会いを描いた銅版画の中ではブロウディとスミスの間に闘鶏用の軍鶏が描かれている。

ブロウディと闘鶏の連想は決してケイだけのものではなかったはずである。すでにブロウディの「博打好き」の噂を人々は耳にしていた。獄舎における像とスミスとの出会いを描いたふたつの銅版画ではブロウディの右目のすぐ下に傷のようなものがはっきりと描かれているが、これも「博打」のごたごたの中で負った傷である、とウィリアム・ラフヘッドが 『ディーコン・ブロウディの裁判』(The Trial of Deacon Brodie, 1906)※9で述べている。また、ケイの描いた三番目のブロウディは闘鶏場に群がる紳士たちを描いた銅版画中にさりげなく登場させられている。

講演中のアンドレ・アンジェイ非常勤講師

しかしこの闘鶏場銅版画は、『ケイ銅板画集』第一巻中で44という番号が与えられた作品で、制作年は1785年である。ブロウディの他の銅版画2枚はともにブロウディ一味の窃盗事件発覚後の1788年に制作されたものであるが、これはそれより3年以前の作品である。窃盗犯人としてブロウディが逮捕されるかなり前から彼の博打癖はすでに町では知らないものはいなかったはずであることが容易に推測される。

その銅版画に付されたジェームズ・パターソン(James Paterson) の解説文には興味深い一節が引用されているが、それはケイ自身の言葉であると言う。
それによると、ケイは闘鶏について次のように言っている。エディンバラで広く楽しまれている闘鶏を見るにつけ、ケイ自身驚きを禁じえない。なぜなら、普段の生活においては上流階級の人々は下層の人々に気を許すなどもっての他としか言いようの無い振る舞いなのだが、こと闘鶏に関してはまことに不思議な光景を目のあたりにする。闘鶏場では貴賎上下のへだたりなく一同こぞって勝敗を競っているのだ、と。

そして上の闘鶏場銅版画に描かれた多くの人物たちの名前を紹介して、いわゆる上流階級の人々も大勢描かれているとパターソンは述べているのだが、そのうちのひとりがディーコン・ブロウディであると言う。『ディーコン・ブロウディ -- ジーキルとハイドの父親 --』 の著者ジョン・S・ギブスン(John Sibbald Gibson)もブロウディが描かれていると述べている。

単身像とスミスとの出会いを描いたもの2枚のブロウディ像で注目しておかなければならないのは、彼の立派な身なりではないだろうか。しゃれたベスト、落ち着いた感じの黒い上着、膝までの短い黒ズボンの下には白い(おそらく絹の)ストッキングをはいている。いわゆる男性の「正装」(full suit)である。そして獄舎にある者にはいささか不自然と思われるよく整った頭髪。この姿はまさに町の名士の風格を見事にそなえた身なりではないか。ブロウディは町の行政にも深く関わった人物であったことは前にもふれたが、これらの銅版画像に丁寧に描き出された彼の身だしなみは公務に従事するブロウディを彷彿させる。クリーチをはじめとして、ブロウディの裁判やその後の処刑について書いた著者達の多くは裁判の場に臨んだブロウディの、あるいは処刑場に現れた時のブロウディの、普段と変わらぬ端正な姿を伝えているが、このケイによる獄中のブロウディ像ではそれらの記述が参考にされているのかもしれない。※10 またケイはブロウディの処刑を見物していた4万人を下らなかったとも言われる群集(クリーチによる)の中のひとりであったかもしれない。右の目の下にある不気味な傷を除き、このブロウディの立派な姿から彼が「窃盗団」の一味であったなど誰が想像できようか。ケイの銅版画の意図もおそらく人々の想像を超えたブロウディの人格の二重性を描こうとするものだったに違いない。

この優雅な身なりと、博打好きを示唆するサイコロやカード、あるいは盗みの「道具」である鍵の束などのテーブル上の小道具、そして町の名士に不釣合いな顔に残るけんかの傷痕が、ブロウディ特有の奇怪な対照を作り出している作品なのである。

さて本稿で主に焦点をあてたいクリーチの『ディーコン・ブロウディ裁判顛末記』にあるクリーチ自身によるケイに関する言及に戻る。

クリーチはケイが独学の銅版画家であることを強く意識してその才能を高く評価している。クリーチはケイを以下のように紹介している。

  ジョン・ケイはもって生まれた画才を発揮してエディンバラの人々の関心を引いた銅版画家である。最初その才能はまだまだ荒削りであったが、研鑽に励めば秀でたものとなるに違いないであろう。ところでケイの生い立ちが興味深く、書き留めて読者に供するに値するものと考える。ダルキースから4分の1マイルほどの小さい家の生まれである。その家は近隣ではジブラルタルという名で知られていた。父親は雇われ石工であったが、ケイ7歳の時、死亡。家族は窮するところとなり、母親はケイに十分な教育を与えることができないまま、ケイが13歳になった時、ダルキース村で理髪業を営むジョージ・ヘリオットなる人物のもとへ奉公に出したのである。

ごく幼少のころより、ケイは炭となった棒切れで絵を描いて自分の才能を発見していたのである。ところが彼の絵の才能は不運にも世に見出されることはなく、後援者にめぐり合うこともなかった。そしてその境遇では、自身の才能を磨くすべもなかった。紳士の髭の手入れと日曜ごとの鬘の整え、などの日々に嫌気がさし、奉公をやめるに至った。しかし母親は激しくケイを打ち、ケイは奉公先へと戻されてしまった。その後6年間ケイはその奉公を続けることになった。

頼るものは身に付いた勤勉さのみであった。理髪師として働くうちに、ダールトンの地主であった今は亡きニスベット氏と出会うことになった。ニスベット氏はケイの絵の才能を発見するに及んで彼に好意をいだき、たびたび自分の元に呼びよせるようになった。ケイにはそれはありがたいことではあったが、一方で理髪のほかの客を失う結果ともなったのである。

ニスベット氏に付き合う時には自由な時間もあり、絵心が再び息を吹き返したのであった。そして、「三叉鍬で自然をしばし制御したと思っても、自然はすぐにもとに戻る」とローマの詩人ホラティウスのアリスティウス・フスクス宛書簡にみえる一節を引用してケイの心境を記している。※11

ケイはいくつかの単身人物像や群像などを描き関心をあつめることになったが、これらはすべて人物たちを垣間見ただけで描かれたものであった。さまざまな機会をとらえ、多くの場合一瞥するだけで似姿を描くケイは人々を驚かせるのであった。絵をえがくこと、あるいは銅版製作においても手ほどきというものをまったく受けることがなかったケイは、数年前のニスベット氏の逝去以後は、すべてを独学することになった。現在までに百点を越す彼の銅版画が売れ、今では好きな道に専心することができるようになっているのである。最近では細密画も手がけるようになり、この方面でも才能を遺憾なく発揮して、ほんの一瞬垣間見ただけの人物なり、あるいは記憶の中にある人物なりを実に見事に描いている。不惑を過ぎたケイは現在家族とともにエディンバラに住んでいる。

  以上がクリーチが記した銅版画家ケイの紹介文である。内容の多くはケイ自身が自分の『銅版画集』のために遺した短い自伝と同じものであるが、おそらくここに書かれていることはクリーチがケイから直接聞いたことを元にしていると考えてよいだろう。

現在エディンバラのハイストリートの227番地には、「理髪師であり細密画家であったジョン・ケイ(1742-1826)の住居」というプレートが掲げられている。

講演中のアンドレ・アンジェイ非常勤講師

この家はケイが1785年に最初の妻リリー・スティーブンを亡くし、2年後の1787年再婚したマーガレット・スコットと暮らしたところであった。くしくもその年から翌年にかけて、ブロウディ事件が発覚し、クリーチの『ディーコン・ブロウディ裁判顛末記』の出版の際には自身のブロウディ銅版画像が挿絵として挿入されることになる。言わばケイの人生のひとつの節目にあたる時期であった。残りの人生をずっと過ごすことになるその家は、自身の銅版画作品を陳列していた店があった国会通り10番地、そこは広場の南側にあたり、ちょうど聖ジャイルズ教会の背後となるが、そこからほんの数十メートルほどの所である。この住居および店舗とも、先に言及したクリーチ書店の眼と鼻の先である。

 



※1 R. L. Stevenson, Edinburgh (Lonn : Seeley, Service & Co. Ltd., 1923)、
p. 63 参照。

※2 前掲書、p. 63。

※3 スティーヴンソン 「ジーキル博士とハイド氏」(海保眞夫訳、岩波文庫)、p.120。

※4 W.E.Henley との共著の劇作品 Deacon Brodie or The Double Life 参照

※5 スティーヴンソン夫人の証言では「ブロウディへの大きな関心」と「当時のフランスにおける心理学」が物語りの元になっているとしている。Fanny van der Grift Stevenson, “Strange Case of Dr.Jekyll and Mr. Hyde.” In Registration Prefaces to Robert Louis Stevenson's Works (New York: Charles Scribners Sons, 1905) 参照。

※6 例えば、 J.S.Gibson, Deacon Brodie:Father to Jekyll & Hyde (Edinburgh:The Saltire Society, 1993)あるいは R.T.McNally & R.R.Florescu, In Search of Dr. Jekyll & Mr. Hyde (Los Angeles:Renaissance Books, 2000)、などを参照。

※7
William Creech, An Account of the Trial of William Brodie and George Smith 2nd Edition (1788).


※8 James Grant, Old and New Edinburgh
(London: Cassell, Petter, Galpin & Co., 1880).


※9 William Roughead, Trial of Deacon Bodie (Glasgow and Edinburgh: William Hodge & Company, 1906).

※10 ブロウディとスミスが処刑された翌日の「夕刊エディンバラ新報」などが処刑の模様を伝えている。「夕刊エディンバラ新報」(1788年10月2日号)。エディンバラ市立図書館本館エディンバラ・ルーム所蔵

※11 Horace, “An Epistle to Aristius Fuscus,” in Satires, Epistles, Ars Poetica
(Loeb Classical Library), p. 317.

 

 

 
 
 

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