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人間文化学科からのお知らせ

 
 

ベンジャミン・ウィリアム・クロンビー石版画

『現代のアテネ人:
  古都エディンバラの紳士たち』 - 実施報告

 

 

 

 

 

以下は平成21年6月6日に京都ノートルダム女子大学で行われた公開講演会第5回「比較古都論  古都エディンバラの光と影」と同時に開催していたベンジャミン・ウィリアム・クロンビー石版画展『「北のアテネ」の人たち』(於 京都ノートルダム女子大学図書館)で展示した石版画です。なお展覧会は『「北のアテネ」の人たち』となっておりますが、これはエディンバラの通称「北のアテネ」を展覧会名に用いたものでした。実際のクロンビー石版画集の原題は『現代のアテネ人』( Crombie’s Modern Athenians 1837〜1847)です。

 
ベンジャミン・ウィリアム・クロンビー (1803〜1847)

ベンジャミン・ウィリアム・クロンビーは十九世紀前半スコットランドの古都エディンバラで活躍した画家である。今回展示している二名一組人物肖像画はクロンビーの代表的な作品とされる。三十代より手がけられ、発売当初から評判となり、法律家の事務所や、牧師の執務室などの壁をかざっていたようである。1839年から、クロンビーが他界した1847年にかけて断続的に刷られていたが、48作品が集大成されて1882年、横長二折り判『現代のアテネ人-----スコットランドの古都エディンバラの著名人肖像画----』としてエディンバラのアダム・アンド・チャールズ・ブラック社より出版された。

このクロンビーのリトグラフ肖像画集は『現代のアテネ人』と名付けられているが、これは言うまでもなく古都エディンバラがいつのころからか「北のアテネ」と呼ばれるようになったことに因んでいる。いわゆるスコットランド啓蒙と呼ばれる18世紀後半、エディンバラはヨーロッパを代表する文化都市となっていたが、そのエディンバラのめざましい発展ぶりを古代のアテネになぞらえてその異名が流通するようになったのである。

今回展示している10作品は、1839年に初めて世に出された16作品のうちに含まれ、1882年版『現代のアテネ人』の最初に配置されているものである。それぞれの作品に描かれている二名の紳士については、1882年の横長二つ折り判『現代のアテネ人』にウイリアム・スコット・ダグラスなる人物が簡単な人物伝を書いている。この形式による出版は、恐らく、1837年に出版されたエディンバラの銅版画家ジョン・ケイの銅版画肖像作品集に倣ったものと思われる。

この10作品に加えて今回展示している1点の肖像画は、『現代のアテネ人』の口絵となっているスコットランドの文豪ウオルター・スコット像である。ロンドンの版画店ルドルフ・アッカーマンによって1831年に刷られたこの全身肖像画は、スコットが1832年にこの世を去っているので、スコット最晩年の貴重な肖像画であると言われている。肖像画のタイトル「ウェイヴァリーの著者」は1814年に発表されたスコットの代表的物語「ウェイヴァリー」に因んでスコットに与えられた名である。 

『現代のアテネ人』の口絵となっているスコットランドの文豪ウオルター・スコット像である。ロンドンの版画店ルドルフ・アッカーマンによって1831年に刷られたこの石版全身肖像画は、スコットが1832年にこの世を去っているので、スコット最晩年の貴重な肖像画であると言われている。肖像画のタイトル「ウェイヴァリーの著者」は1814年に発表されたスコットの代表的物語「ウェイヴァリー」に因んでスコットに与えられた名である。 

 

左側のアレクサンダー・ヤングソン氏は法律家。この絵が描かれた時は72歳頃と推定される。真鍮のボタンのついたブルーのコートは当時すでに時代錯誤的な守旧派の装いながら、ヤングサンお気に入りの格好であった。

奇抜なスタイルの右側の人物はジョン・シェリフ氏。人呼んで「ドクター・シンタックス」。イングランドの風刺画家ローランドソンの1815年の同名の版画作品に因んでこう呼ばれた。毎日のようにエディンバラを徘徊していたようで、特に大学の教授連のお気に入りだった彼は、教室へ「出入り自由」の栄誉に与っていた。シェリフは「僕は大学でもう何科目も受講している」が自慢だったそうである。

当然ヤングソンはシェリフとのペアーに不快感を抱いたものと思われる。その償いの意味もあってか、ヤングソンは『現代のアテネ人』に、同業の紳士ロバート・マーサーと一緒に再び登場することになる。

 

ふたりはともに聖職者。左側に位置している人物はデーヴィッド・ディクソン師。右側はロバート・キャンドリッシュ師。一見してすぐ違いのわかる年恰好や体つき以外に、ふたりは牧師としての立場を大きく異にしていた。1843年のスコットランド教会分裂の中でディクソンは守旧派に属し、そしてキャンドリッシュは改革派の指導者であった。

 ディクソンは1832年に死去した文豪ウォルター・スコットのスコットランド教会葬をスコットゆかりの地アボッツフォードで司式したことで有名である。

キャンドリッシュはスコットランド教会を脱会した後、トーマス・チャーマーズとともにスコットランド自由教会を打ち立てた。その自由教会によって設立され、後にエディンバラ大学神学部となるニュー・カレッジの学長も務めた。

ふたりの聖職者の言わば正反対の足跡を考えると、お互いをしっかり見つめ握手させて描いているクロンビーの意図はどこにあったのか、と考えさせられる。

 

このふたりの関わりは、当時エディンバラでかなりよく知られたコレクターであったということだけのようだ。左側の人物は元軍人のジョージ・エーンズリ氏。古銭の蒐集家であった。

コレクターとしては右側の人物ビンドン・ブラッド氏の方がはるかに有名である。アイルランド出身の書物蒐集家であった。いや、蒐集家というよりは、蒐集狂とでもいうべき人物だったようだ。なりふりかまわず買いあさる彼の姿は時に同業者から「吸血鬼」あるいは「ドラゴン」と悪態をつかれることがあった。しかし読者好きではなかったようだ。いわば蒐集のための蒐集だったのだろうか。

クイーン・ストリート22番地の家は、屋根裏、地下倉庫など、所狭しと蒐集した書物が無造作に積み上げられ、それはもうコレクションと呼べる体のものではなかったようだ。不思議なことに、1842年彼は厖大な蔵書ともどもエディンバラから忽然とその姿を消してしまったのである。

 

『現代のアテネ人』は全部で48枚のリトグラフを掲載している。それぞれが2名の紳士を描いているので、口絵のウオルター・スコット卿を含めると、合計97名の紳士が描かれていることになる。その中でこの絵は2名の紳士が面と向かい合っていない唯一の絵である。

ふたりはともに法律家。彼らの「仲良しぶり」は町の評判で、ギリシャ神話に出てくるレーダーの双生の息子「カストールとポリュデウケース」とあだ名されていたから、よほどいつも一緒だったのだろう。

左側はロバート・トムソン氏。右手に持つムチが彼の乗馬趣味を示唆している。1857年に亡くなっている。右側はロバート・ハンター氏。土地家屋の賃貸借に関わる法律の専門家であったという。畏友トムソンより14年長生きして、1871年に亡くなった。

 

このように2人が何かについて熱心に語り合っている様子の絵は『現代のアテネ人』では珍しい。しかもふたりは肥満型と瘠せ型と対照的なので、どことなく微笑ましい。しかし彼らの話題はおそらく深刻なものであったろう。両紳士は牧師であり、ともに1843年スコットランド教会を出て自由教会を設立した仲間である。

左の肥満型紳士の名前はパトリック・クラーソン師。当時のスコットランド教会では、教区民が歓迎しない牧師を教区に招聘赴任させるべきでない、と考える牧師たちが自由教会設立へ動いたとされているが、クラーソンもそのような考えを持ってスコットランド教会を去った牧師のひとりであった。1868年7月、ウエールズに親戚を訪ね、エディンバラに戻った直後突然死去したと伝えられている。享年79歳であった。

右の瘠せ型紳士はロバート・ゴードン師。スコットランド教会分裂の折、新しい教会を設立しようとした牧師や会衆たちは1834年5月18日ジョージ・ストリートからキャノンミルズの集会施設へ記念すべき行進を行った。ゴードンもその一員であった。目的地に到着して静まりかえる会衆たちに向かってゴードンは「私は自分の信仰心に忠実に従い、そして自由となった」と述べたそうである。そして人々は口々この言葉を引き合いに出して自由教会設立に向けた熱い討議を行ったと言われている。ゴードンはスコットランド自由教会設立者の中で最も影響力を持った牧師であったのである。1853年10月67歳で死去。

それにしてもこのふたり、いったい何についてこれほど熱心に語り合っているのだろうか。

 

左側のおしゃれな身なりの紳士はジョン・ジェフリー氏。一時ニューヨークに移り住んでいたが、1810年エディンバラに戻りその後生涯をその地で暮らした。当時エディンバラ法曹界の重鎮であったフランシス・ジェフリーはただひとりの兄にあたる。1804年当時の若手ホイッグ達によって設立された「金曜クラブ」の会員であった。

右側のチャールズ・カークパトリック・シャープ氏は有名な骨董蒐集家。彼の家は蒐集した骨董品で埋め尽くされていて、さながら小博物館だったそうである。文豪スコットは日記の中でこの紳士に言及して、「風変りでいてこの上なく貴族趣味」の点はスコットランドのホレス・ウォルポールと呼ぶにふさわしいと述べている。

この絵の中ではジェフリーと何やら話し合っているように描かれているが、実際面識があった形跡は見当たらないようだ。それにシャープはトーリー贔屓だったようであるから、なおさらこのふたりのペアーは不思議である。

 

まったく体格も風貌も異なるふたりが握手しているこの絵に描かれているのは、ジョン・ハンター師アレクサンダー・ブラントン師である。彼らはともにエディンバラの牧師として無二の親友でもあった。

ハンター師は同じ牧師のアンドリュー・ハンター師を父にエディンバラに生まれた。父親であったアンドリュー・ハンター師はトロン教会の牧師のひとりであった。その死後、その職をブラントン師が継ぐことになったいきさつがある。

いささか風采のあがらなさそうなハンター師に比べて、ブラントン師はその博識と貫録で町の名士でもあった。またブラントン師は碑銘の達人でもあったようで、様々な建物の礎石に彼の銘文が刻まれているということである。

 

『現代のアテネ人』では、ふたりの紳士が瘠せ型と肥満型の組み合わせで描かれることが多いが、この絵もそうしたクロンビーお得意のペアのひとつ。

右側の紳士の名はヒューゴ・アーノット氏。18世紀エディンバラのカリカチュアリスト、ジョン・ケイの肖像画に幾度も登場する著名な「エディンバラの歴史」の著者と同姓同名ながら、別人である。ケイの描くアーノットの極端な痩身を同姓同名の別人にあてはめたクロンビンーのユーモアだろうか。「エディンバラの歴史」の著者アーノットは36歳でこの世を去っているので、ここに描かれている白髪白鬚のアーノットは確かに別人なのである。

左側の肥満型紳士の名はジョン・アーヴィン氏。エディンバラ大学の法学者であった。見るからに緩慢な動作の持ち主であることが窺え、その顔つきもどことなく沈んでいる。1839年6月に亡くなったので、この絵は最晩年の彼を描いていると考えられる。

 

このペアは『現代のアテネ人』では比較的少ないビジネスマンの組み合わせである。ふたりとも立派な体格で、顔つきも自信に充ち溢れているように見受けられる。功成り名遂げた市民の典型なのである。

左側はロバート・トムソン氏。アイリッシュリネンを扱う貿易商としてエディンバラでは名声が高かった。行政にも影響力を発揮、守旧派を自認していた。1842年エディンバラとグラスゴー間に日曜日運転の列車案が出た時反対の先頭に立った名うての安息日厳守主義者であった。

右側のアレクサンダー・ダグラス氏も実業家でありかつ活発な社会活動家でもあった。またダグラスも守旧派の市民の代表格であった。今日のエディンバラの目抜き通りプリンシズ・ストリートに沿うガーデン建設案の熱心な推進者であったことで今日までその名を残している。しかしトムソンに比べてその身だしなみには無頓着のようである。

 

ふたりはスコットランドで法廷外弁護士(Writers to the Signet)と呼ばれる法律家で、絵が描かれた当時最長老格であったとされる。

左がジェームズ・ジョーリー氏、右がロバート・サイム氏。ふたりとも長身で、見るからに恰幅が良い。しかし同僚のふたりにははっきりとした相違点もあり、クロンビーはその点も見逃さないで描いている。右のサイムは白髪ながら顔色は若々しく、明るい色の装いであるが、一方左のジョーリーは髪、手袋そしてコートと黒ずくめ。右手に持つ竹製ステッキだけが黄色、という出で立ちである。

そしてジョーリーの顔立ちが高い知性を感じさせるものの、どことなくオウムを連想させるように描かれているのに比して、サイムの面相のなんと優雅で穏やかなことであろうか。その視線の高さにもはっきりとした相違が出ている。

肖像画家クロンビーの優れた人物観察眼が十分に発揮された好例ではないだろうか

 
 
 
 
 
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