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岡村敬二教授 「戦前期「外地」で活動した図書館員に関する総合的研究」

 
岩手県立図書館訪書記−蔵書印と寄贈の記をめぐって 2009年10月28日(水)
 

盛岡巡覧

ひとりで訪書や巡覧に出ると、夕食後その日に巡った図書館や史蹟のメモを作成してしまえばあとは寝てしまうだけである。そうすると翌日は朝早くに目が覚めるので必定早朝にその町を歩いたりすることになる。今回も盛岡の町を朝6時ごろから歩いてみた。

盛岡という町には約40年前に、岩手大学の学寮を起点にして五能線に乗って一周したり岩手山に登り八幡平に抜けたりと、若気のいささか感傷的な旅行をしたことがあるのだが、盛岡の町をゆったりと巡ったことはない。

本学の授業で、京都フィールドワークと称し、京都の史蹟や墓所、そして古木や明治・大正期の建物、文学作品の舞台などをよく回ったりするが、この盛岡においても、そうしたフィールドワークの参考のためにと思い、当日早朝に近代建築や古木、文学史蹟を歩いてみた。ルートだけを示しておくとつぎの通り。

「紺屋町番屋」…1913(大正2)年に盛岡消防分団として建てられた。望楼がすばらしい。
「盛岡信用金庫(旧盛岡貯蓄銀行)」…昭和2年の建造。葛西萬司(1863〜1919)の設計。昭和初期のモダニズム建築とされる。
「岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行)」…中津川の畔に建つ。明治44年建造でこれも葛西萬司の設計である。宮沢賢治が「岩手公園」で詠っている。
「ござ九」…ござや畳などを扱う商家で1816年(文化13年)の創業。間口が広く豪商であったことがよく知れる。
「鬼の手形」…あるとき悪事をはたらく鬼が現れ、村人が困惑し三ツ石様にこの鬼の退治をお願いした。すると三ツ石様は悪鬼を捕まえて大きな三つの石に、以後悪事を働かぬ、との約束をさせて手形を押させた。これが岩手の由来という。
「石割桜」…盛岡地方裁判所の敷地内にある。花崗岩の割れ目から生い茂るエドヒガンザクラ、 樹齢360年という。国の天然記念物
「盛岡城跡公園」「桜山神社(烏帽子岩)」…盛岡城は南部氏の居城である。石垣も総代で立派なものであった。石川啄木や宮沢賢治もこの城を好み作品に残している。そこには桜山神社もある。明治維新の戊辰戦争で幕府軍として戦った南部氏は維新後に盛岡城を廃城とされこの桜山神社はいったん他所へ遷ったが戦後にこの地に再び遷座した。本殿うらに大きな岩が祀られてある。
「石造十六羅漢、五智如来」…盛岡藩の飢饉による死者供養のため天然和尚が発願して嘉永3(1850)年宗龍寺内に建立された。寺は維新後に廃され、現在は「らかん公園」として講演の中に祀られている。
「正食普及会(旧井弥商店)」…黒漆喰の土蔵造り。呉服問屋の跡という。

 

「岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行)

「岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行)

 

盛岡地方裁判所の敷地内の「石割桜」

盛岡地方裁判所の敷地内の「石割桜」

 

『月刊満洲』と蔵書印

宿舎で朝食をすませて9時過ぎに岩手県立図書館に入る。
岩手県立図書館では、今回の科研調査として、戦前期台湾の図書館要覧類の閲覧と、城島舟禮編輯・刊行『月刊満洲』の閲覧を予定した。後者は、昨年の科研([基盤研究C]「戦前期中国東北部刊行日本語資料の書誌的研究」、平成18年より3ヵ年)の『報告書』において解題および目次を掲出したものだが、該館の『月刊満洲』で筆者未見のものが数冊あり閲覧をした。この未見分『月刊満洲』の追加の目次作成(未作成のものは、第11巻2号, 第11巻6号, 7号, 10号)についてはいずれ取り掛かるとして、ここでは、この図書館所蔵『月刊満洲』寄贈の来歴について今回知ることのできたことがらを報告しておきたいと思う。まず該館が所蔵する『月刊満洲』は、つぎの通りである。

『月刊満洲』 第11巻1号, 2号, 4号 昭和13年1月, 2月, 4月  3冊合綴  292.25/ゲ1

『月刊満洲』 第11巻6号, 7号, 10号 1938.6〜1938.10  3冊合綴  292.25/ゲ1

『月刊満洲』 第12巻1号, 4号, 8号? 康徳6年1月〜8月  3冊合綴  292.25/ゲ1
これらの雑誌のうち、表紙に所蔵者の蔵書印が押されていたのは次のものであった。

第11巻 1号…印はない。,

第11巻 2号 …ペン書き「金子定一氏寄贈 昭和13年4月」、変形の丸印「銀杏荘印」。

第11巻 4号 …変形の丸印で「銀杏荘印」

第11巻 6号…丸印横書き「銀杏荘/13.6.16/盛岡市仁王小路」

第11巻 7号…丸印横書き「銀杏荘/13.7.14/盛岡市仁王小路」

第11巻10号…丸印横書き「銀杏荘/13.10.20/盛岡市仁王小路」

第12巻 1号…丸印横書き「銀杏荘/14.1.15/盛岡市仁王小路」

第12巻 4号…縦長角印縦書きで「盛岡市仁王小路/小林茂雄」,

第12巻 8号…丸印横書き「銀杏荘/14.7.19/盛岡市仁王小路」

この丸印は銀杏荘の受け入れ印、角印は蔵書印である。銀杏荘というのは、盛岡で医院を開業していた小林茂雄という人物の学荘で、そのように称していたものである。そして小林はそれぞれの雑誌に、受け入た日付や蔵書印を丁寧に押印していたと思われる。

 

小林茂雄の事績

小林茂雄には、その孫にあたる高氏が編集された『銀杏荘春秋記』(小林茂雄〔著〕・小林静一〔著〕 小林高〔編〕 盛岡 小林高刊 1991.3  185p)がある。岩手県立図書館の郷土資料コーナーで閲覧した 『銀杏荘春秋記』の「あとがき」によれば、編者高氏の祖父小林茂雄は、仁王小路で産婦人科医を開業し、その子息静一、孫にあたる高氏と産婦人科医院は三代にわたって引き継がれてきた。仁王小路はその後に中央通りと改称となったが、茂雄が植えた銀杏の木は今も枯れずに生き続けているという。この「あとがき」により、茂雄が号した「銀杏荘」の由来も、仁王小路というのが中央通りの旧地名であったこともよく了解する事ができた。

それではこの小林茂雄の履歴をもうすこし詳しくみておきたい。『銀杏荘春秋記』の年譜および『岩手百科事典』『岩手人名辞典』によればつぎのとおりである。

小林茂雄は明治19年6月生まれで盛岡中学から仙台医科専門学校(現東北大学医学部)卒業。盛岡中学のころには花郷と号して一級上の石川啄木とともに短歌グループ「白羊会」を結成し歌を詠んでいた。啄木の「近眼にておどけし歌を詠み出でし茂雄の恋もかなしかりしか」に出る「茂雄」はこの小林であるとされる。

また医科専門学校時代には、魯迅と同級でもあった。医専卒業後は、盛岡市の工藤医院勤務、その後大迫町で開業し大正5年仁王小路で開業する。大正13年から1年半ウイーンで病理学を学び、帰国後は順天堂病院、東北大学法医学教室および産婦人科教室で研究した。昭和3年秋田県大館病院婦人科部長、同年5月医学博士(東北大学)の号を受ける。昭和5年盛岡市仁王小路でふたたび開業し、のち岩手市医師会長、岩手県医師会長、盛岡市市会議員などを歴任し昭和27年8月3日死去した。墓所は盛岡市法華寺である。

小林茂雄と石川啄木・魯迅との交友については茂雄の子息小林静一が「父と啄木・父と魯迅」と題した章のなかで、「父茂雄と“カンニング”」「父と魯迅」「父茂雄の思い出」として語っている(前掲『銀杏荘春秋記』)。「父茂雄の思い出」では、茂雄の毎日の丹念な新聞スクラップ作業の様子が述べられており、その几帳面な性格が語られる。このスクラップというのは大正の初めから作り始めた新聞などの切り抜きで、昭和になってからは文芸・科学・社説などと系統的に分類されてあるという。これらの新聞の束について個人の遺志では岩手県立図書館に寄付したいとの意向であったと書かれているが、如何なる次第になったのであろうか、この件について今回は確認できていない。また銀杏荘に所蔵されていたかもしれなぬ他の書物の行方についても、今回は調査できていない。

 

金子定一の事績

さて『月刊満洲』の寄贈の経緯について述べなければならない。『月刊満洲』第11巻第2号(昭和13年2月)の表紙には、変形の丸印「銀杏荘印」と押印されていて、左上の空白部分にペン書きで「金子定一氏寄贈 昭和13年4月」とある。これは小林のメモで、この雑誌が金子定一から寄贈されたものであることを示している。

 

『月刊満洲』第11巻第2号表紙

『月刊満洲』第11巻第2号表紙
左上に寄贈のメモがある
(岩手県立図書館所蔵)

 

『岩手百科事典』『岩手人名辞典』『満洲紳士録』などによれば、この金子定一は明治18(1885)年生まれ。盛岡中学時代の友人に石川啄木がおり、小林茂雄と同様白羊会の同人、細越夜雨の闇潮会の同人でもあった。つまり小林と金子は盛岡中学で一緒であったわけだ。号は磧鼠、香寧児。陸軍士官学校・陸軍大学校卒業後、歩兵第三十一連隊、金沢連隊区司令官、第八師団参謀、朝鮮軍司令官部、関東軍司令部、陸軍士官学校中華民国学生隊長、陸軍大学校教官、満洲国協和会首都副本部長、新京将校会会長、新京実務学校長と満洲で軍関係の要職を歴任する。昭和12年退役後は、県郷友連会長、奥羽史談会会長を勤めた。昭和17年衆議院議員に当選している。『雑文クラブ』『月間郷土』などの編輯もおこなった。著作として『金子大佐特別講義速記録』(宮崎高等農林学校 1932)、『甲子革令政変記 日華纏綿 金子定義文集 明治廿一年中の叙事評論』(金子定一全集刊行会編 1959  (開発クラブ 第14巻第4号 金子定一集 第2)、『世界戦国と満洲国民』(満洲帝国教育会 1941)、『成吉思汗の子孫が赤化するまで』(支那事情社 1927)、『東北太平記の梗概と原註私註 在鮮終戦日記抄』([金子定一全集刊行会編 1958  (開発クラブ 第12巻第10号  金子定一集 第1)、『日本民族の大陸還元』(千倉書房 1939)がある。昭和35年4月30日に死去し墓所は盛岡市円光寺である。

こうして、小林茂雄と金子定一の履歴をみてみると、金子は盛岡中学で小林の一年上にあたることがわかる。そしてともに啄木の白羊社の同人で、文学に関心を持っていた。小林は仙台で医学を学び盛岡で開業し、金子は外地に出て軍の仕事に邁進した。この二人が多感なりし旧制中学時代に短歌の会の同人として活動していたことから想像すると、この交友関係は親密でその後も続いていたと考えていいだろう。

 

小林茂雄宛の金子定一はがき

該館所蔵の『月刊満洲』第11巻第2号(昭和13年2月号)には、満洲国新京市興安大路に住まう金子定一から「医学博士 小林茂雄」に宛てたはがき(あて先は盛岡市日影門外小路となっている)がはさまっていて、雑誌とともに図書館に寄贈されていた。この葉書の消印は、「新京中央 5.3.28 」と判読できた。「5.3.28」 は、康徳5年3月28日、つまり昭和13(1938)年である。この文面を読むと、『月刊満洲 二月號』を一度お送りしたと思うが届いていないといけないのであらためて送ること、この号には貴兄(小林茂雄)の「名文」が収載されているが、同時に自分の「迷文」も掲載されていること、御目塞ぎであるが満洲でのことであり御目こぼしを願いたい、そして博士号の肩書きについては承知せず失礼を申上げた、といった内容である。

この11巻2号には、確かに金子少将「世界の至宝と言はれる日本女性とその反省」が24pから32pまで長文で掲載されており、さらに小林茂雄の「魯迅と藤野先生」が見開き2pで収載されており、このはがきの内容を裏付けている。

この小林茂雄「魯迅と藤野先生」には、『月刊満洲』編集長城島舟禮が、小林の文章を再録するにあたって付された編集部注とでもいうべき但し書きが掲載されている。この文章により金子と小林、そして城島と金子との交友も推し量ることができるので次に引用しておく。

先達て某閣下を官邸にお訪ねしたところ、いいものがあるから君に上げようといって、書斎に大事に仕舞っておられたらしい書き物を下すった。それがこの『魯迅と藤野先生』(十二年四月二十四日河北新聞所載を炭酸紙で清書したもの)である。

附記  改造社の『大魯迅全集』中にある訳者増田渉氏に宛てた魯迅の書簡を御紹介する。『十一月二十五日の御手紙は到着しました。「某氏集」(魯迅選集を指す)は全権にてやりなさい。私には別に入れなければならないと思うものは一つもありません。併し「藤野先生」だけは訳して入れたい。…下略。』(城島)

 

この小林茂雄の小論には、仙台医科専門学校時代の同級生周樹人(魯迅)のこと、「藤野先生」である藤野厳九郎氏とその後のことなどが記され、当時なお福井県の片田舎で診療所を開いて地域の人びととともに老後を養っている藤野のことなどが、端正な文章をもって述べられている。そして藤野先生から送られてきた手紙についてもその一部を公開している。

 

金子定一と城島舟禮

この城島舟禮の注の文章にある「某閣下」とは、金子少将とみてまちがいないいだろう。金子は、此の常時満洲編輯の『月刊満洲』の常連執筆者でもあった。金子定一とフルネームで目次に上がっているものだけでもつぎのように数多くある。城島と金子の交友が伺われる。
「日本人日本人を知れ」(第10卷8號 昭和12年10月)、
「果して『西は西、東は東』か」「葉書囘答  僕の兵役關係」(第10卷9號 昭和12年11月號)
「國都新京に博物館設立の可否」満鮮拓殖会社顧問 陸軍少将金子定一ほか(第11卷1號 昭和13年1月)
「朝鮮及び朝鮮人問題の為めに」(第12卷1號 康コ6年1月)
「新機運の待望とその餘談」(第12卷3號 康コ6年3月)
「大陸民心の把握と日本の反省」(第12卷4號 康コ6年4月)
「日滿の歴史的使命と次の歐米大戰」(第12卷5號 康コ6年5月)
「國民的大業と内部の整頓」(第12卷6月號 康コ6年6月)
「日本の自己過小評価と焦燥病」(第12卷8月號 康コ6年8月)
「日本中心東亞大政團を樹立せよ」(第12卷10月號  康コ6年10月)
「西洋は戰爭東亞は新建設」(第12卷11月號 康コ6年11月)
「臥薪嘗贍と享樂片手間」(第12卷12號 康コ6年12月)
「王揖唐」(第13巻7号 康徳7年7月)
「紀元二千六百年を送る」(第13巻12号 康徳7年12月)
「錯覚的事大を戒む」(第14巻10号 康徳8年11月)
「支那事變の大東亞寄與」(第15卷4號 康コ9年4月)
「大戦に映じた日本の真姿」(第16卷1號 康コ10年1月)

このうち、第11卷1號(昭和13年1月号)の「國都新京に博物館設立の可否」については、弘報協会理事三浦清臣・満日文化協会主事杉村勇造・旅順博物館長今井順吉・龍江省次長神尾弌春・奉天満洲医科大学教授黒田源治・満洲事情案所主事奥村義信・満鉄大連図書館長柿沼介らととも回答文を寄せており、城島が金子のことを、少将という軍人としてだけでなく、文化人として認めていたということがうかがい知れる。また第15卷第2号(康コ9年2月)では、「米英の友人」と題して金子定一氏夫人金子信が執筆もしており、城島と金子の信頼関係も見て取れるところである。

そしてまた、先の小林宛て金子のはがきには、小林の肩書きに医学博士号が欠落していたことについて謝罪をしている文面もみえる。これはこの2月号に転載された小林の文章について、目次にも本文にも「医学博士」なる肩書きが記載されていないということであろう。金子定一については本文に「陸軍少将」と記載されているが、小林茂雄については、確かに「医学博士」の記載がない。小林は実のところ昭和3年5月に東北大学で学位を取得している。

『月刊満洲』では、軍や官僚、研究者などその肩書きを記載するのが常態であり、この欠落について金子がはがきで弁明をしたのだろうか。その後の11巻6号にも小林の「魯迅の仙台医専時代」が掲載されているが、目次にはしっかりと「医学博士 小林茂雄」とでている。こまかなことだがこうしたことが誌面に反映されたという次第が了解できて興味をひかれる。

さらに『月刊満洲』第11巻4号の巻末広告のページには、差出人の、新京崇智胡同601 城島舟禮の封書の一端が貼付され「銀杏荘印」で割印されている。郵便の消印は康徳5年(昭和13、1938年)4月11日である。これは、この2月号の医学博士記載の次第についての城島の弁明手紙であるか、または6月号に前掲予定の依頼文書か、といったところであろうか。

 

城島舟禮差出の封書宛名

城島舟禮差出の封書宛名
『月刊満洲』第11巻4号、
(岩手県立図書館所蔵)

 

寄贈の来歴ということ

ここまで、岩手県立図書館に所蔵の『月刊満洲』表紙に押印された小林茂雄のいくつかの蔵書印と金子定一の小林宛の葉書、城島舟禮の転載にあたってのメモや差出人城島舟禮の封書の一端などから、かれらの関係を類推してみた。戦前昭和期に、『月刊満洲』という雑誌をめぐって、盛岡と新京とのあいだの、執筆者たちのやり取りや、雑誌送付の様子、この雑誌の性格などが垣間見られて興味深い。

これらの雑誌は戦後になって、小林家から岩手県立図書館に寄贈されたのであろう。茂雄のスクラップについても、県立図書館への寄贈の遺志が表明されていたとあるので、そうした意向から図書館に寄贈されたのかもしれない。
筆者も長く大阪府立図書館に勤務をした。資料の購入だけでなく寄贈(依頼・受け入れ)の担当も経験したことがある。当時は寄贈されてきた資料については「寄贈の記 誰々」と表題紙裏あたりに記入した。寄贈者が特定できない場合や匿名でという場合は、「寄贈の記 一府民」と記した。

また大阪府立中之島図書館には、図書館創設の時期に、書店や古書店、出版社や文化人ら、そして府民まで、多くの資料が寄贈され、それが、寄贈願書として綴じられて残っている。いまやそれは歴史の一こまとして貴重な時代の証言にもなっている。

現在では、個人情報保護という観点から、こうした「寄贈の記」といったものも記載を制限され、また寄贈者の照会についても、お答え願えない事態に至っている。その事情についても理解できないわけではないのだが、寄贈者が自発的な意思で寄贈される場合や、またそうした寄贈の行為を顕彰するということも大切なことではないかと思ったりもする。こうした「寄贈の記」について、記載する、記載しないと、どちらかに寄せてしまうのではなく、ご面倒ながら寄贈者の意思をどこかで確認されて、然るべき対処をされるのがよいのではないかと考える。

今回の訪書で見ることができた戦前期満洲で刊行された雑誌について、その資料の来歴を問うてみた。このように来歴を問うことで、たとえば、『月刊満洲』の編輯方針の一端も理解できるし、また思春期に文学分野で行動をともにした友人どうしが、その後に盛岡と新京と、まったく異なる地域で、『月刊満洲』という雑誌を舞台として、間接的にでも相まみえるという歴史の一こまも了解できた。こうした交友も、ゆかしいことであると考えて、ここに紹介をしてみたしだいである。

(2009/12/30)

 

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