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服部昭郎教授 「ジョン・ケイの研究 -カリカチャとして描かれた古都エディンバラの文人墨客たち-」

≫ [ 萌芽研究 ] 平成19年より2ヵ年

 
エディンバラの銅版画家ジョン・ケイの研究
 
エディンバラに遺されたオールドタウン
 

 京都の特徴として、町の道が碁盤の節目のように縦横に通っていることがよく言われる。中国唐代の都長安に学んだ結果だそうだが、京都の通りの整然とした構造は千年の都のシンボルマークのひとつと言ってもよいほどである。
 世界にいくつか存在する古都には、その独特の町の構造がそれぞれのシンボルマークとなっているケースが少なくない。もしかするとすべての古都がそうなのかもしれないが、例えば放射状に市街が展開する花の都パリ、こじんまりとした広場を取り囲む小さな古都シエナ、そして水路のヴェニスなどがすぐに頭に浮かぶ。 
 スコットランドの古都エディンバラもその独特の町の構造が大変によく知られている。エディンバラの場合それは旧市街(Old Town)と新市街(New Town)と呼ばれる新旧対象の構造である。

 
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18世紀前半、新市街の計画が持ち上がる直前のエディンバラ俯瞰図
18世紀前半、新市街の計画が持ち上がる直前のエディンバラ俯瞰図
 
 

 エディンバラ(Edinburgh)は現在スコットランドを代表する都市のひとつであり政治・経済の中心地となっていることなどあらためて言うまでもない。ところが18世紀の中ごろまでのエディンバラは、歴史的な王都とは名ばかりで、中世の面影を色濃く遺した文字通りburgh (語源的な意味は「要塞」とか「商業センター」とされる)のひとつに過ぎなかったと言われている。このもともとの (Edin)-burgh が、18世紀後半から北側に新しい都市計画区域を誕生させることになった。その結果、新市域がニュータウン、旧burgh域がそれまでは必要でなかった区別としてあらためてオールドタウンと呼ばれるようになった。ここに現在のエディンバラ市のおよその原型が出来上がったのである。従ってオールドタウンとは18世紀中ごろの都市計画が生み出した新しい名前なのである。新旧両市街成立の歴史的経緯とはうらはらに、名づけ史としては、新と旧が同じ起源を持っていることになる。

 
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旧市街の北方に新市街が展開し始めているエディンバラ俯瞰図。まだごく一部だが、計画されている市街地の整然とした区画が新旧の対照をよくあらわしている。
旧市街の北方に新市街が展開し始めているエディンバラ俯瞰図。
まだごく一部だが、 計画されている市街地の整然とした区画が新旧の対照をよくあらわしている。
 
 

 現在のエディンバラは世界有数の観光都市でもある。そして1年を通して大勢の旅行者が町を訪れる。旅行者の大半は観光ガイドブックをたよりに町を歩く。彼らはオールドタウンと聞いて中世を彷彿とさせる町並みを頭に思い描くことだろう。実際エディンバラ市オールドタウンは古色蒼然たるたたずまいを今に遺し、その異様は訪れる人々に文字通り千年の都を実感させずにおかない。さらにこの古都の独特の風情を目の当たりにして旅行者たちは、エディンバラがいつの頃からか「北のアテネ」と呼び慣わされるようになった理由の一端を納得するのだ。
 今日オールドタウンが旅行者あるいはエディンバラの市民いずれにとっても千年の都のなつかしさを表象していることは確である。しかし当初オールドタウンの名に懐旧的な含意があったわけではない。そのことは今から約250年ほど前、新市街が誕生すると同時に旧市街という名前が誕生した経緯にすでに明らかである。新しい都市計画の側から見る限り、オールドタウンと名づけられた地域は古都エディンバラの文化遺産として後世に遺すべきものなどでは決してなかったのである。むしろ当時のエディンバラは王家も去り(1603)その後まもなく政治的にも主権を喪失することになった(1707)近世初期スコットランドの衰微の象徴と考えられていたとさえ言えるのである。
 18世紀中ごろのエディンバラ開発構想は、このニュータウン計画に象徴される。具体的には1752年エディンバラ市の有識者によって書かれた「エディンバラにおける公的事業に関する提言」(Proposals for carrying on certain Public Works in the City of Edinburgh)から始まっていると考えられている。その「提言」では、エディンバラ(すなわちオールドタウン)のひどい状態が長年にわたってスコットランドの進歩の妨げとなっており、スコットランド蔑みの的でもあるので、商業を振興して繁栄を得るためには市街地域の拡張(enlargement of the town)が不可欠であると指摘されている。
 ところで、オールドタウンと呼ばれるようになった旧burghコミュニティに、例えばニュータウン構想の持ち上がる直前の1755年には5万人余りの人々が暮らしを営んでいたと言われる。エディンバラはその当時いわば超過密都市であったのである。この点から考えると、ニュータウン計画とは旧burgh地域の人口飽和状態の解消策でもあったのである。密集して人々が暮らしていた結果、町はかなり不潔だったと言われている。人々の生活基盤が land と呼ばれていた高層住宅であったことが大きな原因で、長年人々は生活排水の処理に苦労していた。当然下水処理施設もなかったので、彼らが習慣として行なった排水処理は他でもない高層住宅のそれぞれの窓から夜陰に乗じて汚水を道路へぶちまけることであった。道路へ捨てられたのは生活排水だけではなかったことは言うまでも無い。夜のエディンバラは目抜き通りから小さい路地の隅々まで、汚物だらけだった。朝になると一応それは取り除かれたようだが、日曜日などは放置されたままだった。

 
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典型的なland 例(Fleshmarket close)。奥まったところに何棟か見ることができる。ちなみに5、6 階建てはごく普通であり、12、13階建てもあったとトッパムは記している。
典型的なland 例(Fleshmarket close)。
奥まったところに何棟か見ることができる。ちなみに5、6 階建てはごく普通であり、12、13階建てもあったとトッパムは記している。
 
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 ニュータウン計画がまだ緒についたばかりの1774年エディンバラに滞在したトッパムという人物が旅行記の中でこう書いている。

 

エディンバラ市は不潔な生活習慣で夙に悪名高いのであります。
(中略)汚物は幾筋もの路地で取り除かれることなく数日放置される こともあり、汚くて臭いので不快きわまりありません。市当局は、 罰金などを課して汚物を窓から放り捨てることを取り締まろうと しておりますが、狭い路地は薄暗くて人目に付きにくいので、誰も やめようとしません。

 

 しかし、このような不潔な生活習慣が住環境を荒廃させたこともさることながら、ニュータウン計画を策定した町の有識者が北側の地域に新しく移住しようとした理由はそれだけではなかった。彼らがニュータウンの青写真に思い描いた新たな生活空間は、過密で不潔な住環境から隔離された場所でありさえすればよかったわけではない。もちろんその劣悪な環境の象徴として住民の習慣が取りざたされたことは間違いない。しかしニュータウンの青写真は旧burgh地域で数百年にわたって続いてきた渾然たる融合体としての社会構造からも隔離された空間として描かれていたのではないか。ニュータウン構想はこれまでの市街地区を再開発するものではなく、市の構想の当初からそれは市街地より北側に広がる地域への移住を前提にしたものであった。勿論移住を考えられるのは富裕層のみであった。
 上の2枚の俯瞰図でもわかるように、旧burgh北側は谷となっておりその谷底には湖があったので、ニュータウン建設にはこの湖を埋め立てること、そして新市街へ至るための新たな橋を架けることが前提となっていた。具体的には湖は1759年に埋め立てが開始された。新たな橋(The North Bridge)は1769年に歩行者に限って通行可能となった。旧い市街を背後に遺し、新たな市街を拡張するニュータウン建設にとって、その前提的準備であった新たな橋梁の建設はきわめて象徴的な意味を担った工事であった。ニュータウン計画は「旧い町」の限界を超え新たな住空間を模索しようとしたもので、一面では社会的、経済的、あるいは文化的に脱皮を図ろうとする近代スコットランドの幕開けとして画期的なものであった。がその反面いわゆる旧弊を強く忌避する啓蒙思潮を背景に持った近代化政策のひとつとして、過去を他者として遺す歴史の一局面ではなかったか。もしそうであるなら、実際に建造され、現在も市の幹線道路のひとつとして機能している橋梁(The North Bridge)は、新旧両地域を結ぶ繋ぎ目であると同時に旧い世界から新しい世界へ流れ出した人と文化が背後に遺していったものの痕跡を示す道標でもあると言えるのではないか。
 The Making of Classical Edinburghの著者ヤングサン(Youngson)によると、18世紀半ばまでのエディンバラ(オールドタウン)は「ひとつの社会」であり、富裕層と貧しい人々は渾然一体となって軒を並べ住んでいたと言う。彼らの生活には依然として「近所付き合い」が残っていたはずであり、「相互依存精神」も息づいていた。しかしニュータウン計画が着々と進められ、多くの富裕層が移住を開始した18世紀後半から19世紀にかけて、まずはじめは町の物理構造の変化、そして次にそれに伴って社会構造が大きく変化することになった。確かに旧burghの暮らしはスコットランドの政治的、経済的、あるいは文化的衰微の象徴であったに違いない。ニュータウン計画に代表される近代エディンバラ構想は、そのような衰微をオールドタウンと名づけることによって小さいコミュニティに閉じ込め、言わば負の遺産として背後に遺したのである。例えば、法律家達は依然としてオールドタウンで事務所を維持していたが、彼らはすでにオールドタウンへの帰属意識はなかった。二つのエディンバラの出現というべきであろうか。
 私が今回研究のテーマとして選んだ銅版画家ジョン・ケイ(John Kay)は、以上の文脈から言えば、旧い町に遺された人のひとりであった。彼は生涯で900点ほどの銅版画を製作したと今日考えられている。ケイはもともと理髪師であったが、多くの作品がオールドタウンに構えていた理髪店の前の通りを往来した人物たちの肖像画である。そして後に自分の銅版画を陳列販売した銅版画専門店もオールドタウンにあった。エディンバラが急速に変貌をとげる18世紀中ごろから19世紀はじめにかけてこの銅版画家の描いた人物たちはどのような足跡を遺した人々だったのか。死後出版された「作品集」に収められている銅版画ポートレイトにはその人物についての詳細な伝記的記述(Anecdotal Biographies)がもれなく添えられている。このテキストは編者Hugh Patonの依頼でJames Paterson なる人物によって書かれたものである。
 例えばその中には、「国富論」の著者アダム・スミス(Adam Smith)、あるいはR.L.Stevenson の小説「ジキルとハイド」のモデルとなったと考えられているブロディ (Deacon Brodie)など実に多くの人物が銅版画として描かれているのである。
 このケイの銅版画による人物画と、それに添えられた小人物伝は18世紀中ごろから19世紀はじめにかけてのエディンバラに関する貴重な歴史資料であり、スコットランドが近代化する過程の中で遺した「町の成り立ちと人の往来」を知る上でまたとない材料となるだろう。

 
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自画像のジョン・ケイ
自画像のジョン・ケイ
 
 

 これは現在までに確認されているジョン・ケイの自画像4点のうち、彼の「作品集」の冒頭を飾る銅版画自画像である。現在遺されているジョン・ケイの銅版画は1837年から38年にかけて定期的に印刷発行されたものを四つ折版書物2巻にまとめたものが主なるものである。月刊および2巻本発行をともに主導したのエディンバラ在住のヒュー・パットン(Hugh Paton)という人物であった。 ケイはその生涯に900点ほどの銅版画を製作したと今日では考えられているが、パットン編の銅版画集「故ジョン・ケイ銅版画集 -- 肖像とカリカチャ--」にはそのうち初版で229作品、その後の再版で30作品余りが補遺として追加されている。

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1837年刊の「作品集」の表題紙 1837年刊の四つ折2巻本「作品集」
1837年刊の「作品集」の表題紙 1837年刊の四つ折2巻本「作品集」
 

 この自画像は1786年作と記されているので、ケイ40代半ばの自画像と考えられる。スコットランド肖像画美術館に所蔵されているもうひとつの油彩自画像(「銅版画を手にした自画像」)も、半面像として左右の違いがあるものの、その横顔がよく似ており、しかも座っている椅子も「古風」な意匠でおそらく同じものではないかと推察されるところから、これら2点の自画像はほぼ同時期に製作されたものと考えてもよいのではないか。
 この「作品集」冒頭の銅版画自画像にはケイ自身による解説がある。作品集に収められているケイ自らが書いた短い「伝記」の中の一節がそれにあたる。

 

何かを考えている様子で、古風な椅子に腰かけ(彼は古いものをこよなく 愛している)、その椅子の背もたれには大きい愛猫が座っている(きっと スコットランドで一番大きな猫に違いない)。その後ろには幾枚かの絵が かけてある。前のテーブル上にはホメロス像、そして絵の道具がおいてあ り、自身が手に持っているのは筒状にまいた紙、そして膝の上には自分の 作品集をおいている。

 

 まじめな顔で冗談を言っているような気配など風刺画家としての面目躍如たるものが感じられるが、ここにさりげなく書かれている自身の膝の上の「作品集」のことは軽い冗談ではなさそうである。実際「作品集」と名の付く出版物は生前出された事実はないのである。自画像は虚構である、というべきかもしれない。従って、この自画像の中の書物が自身の「作品集」であるとする彼の説明の意図として唯一考えられることは、将来出版されるであろう「作品集」を想定して自画像中に添えているということだろう。自らの「作品集」出版への銅版画家のなみなみならぬ意欲を自画像として描いているというべきだろうか。それとも持って生まれた気質としてのカリカチャ精神のひとつの表れと見るべきだろうか。この伝記は「作品集」中では1786年にケイ自らによって書かれたと記載されているが、先に言及した「銅版画自画像」が制作された時と同じ年に書かれたものとして掲載されているところから、「作品集」冒頭に収められる銅版画自画像を想定して書かれた伝記と考えるほうが事実に近いのではないか。
 この自画像からはすでに銅版画家として社会的にそれなりに認知されている人物の落ちついた自信がよく伝わってくる。この人物がほんの少し前まで、エディンバラの目抜き通りハイストリート(ロイヤルマイル)に店を構えていた理髪師であると誰が想像できようか。「理髪師、銅版画家、社会批評家ジョン・ケイ」の一生はいったいどのようなものであったのだろうか。今のところ我々の知っているこの人物の伝記的事実はごく少なく、しかも自身が書いた簡単な「伝記」による以外に彼の一生を伝えているものは見つかっていない。
 ケイの死後、出版された「作品集」に収められているケイ自身による「伝記」はおよそ次のようなものである。

 ケイは1742年同じ名を持つ石工を父親に、ヘレン・アレキザンダーを母親に生まれる。一家はエディンバラ市南東部の郊外ダルキースの粗末な家に住んでいた。父親の兄弟ジェームズおよびノーマン・ケイふたりとも石工であった。母親はエディンバラ市とその東に位置するキャノンゲート地区でいくつかの住宅を相続していた人だったが、親戚の者にだまされて全てを失ってしまった薄幸の女性だった。しかし親戚の心無い仕打ちにも拘わらず、親戚付き合いは続け、1748年夫の死に際しては当時まだ6歳だった息子ケイをそのうちの一家族に預けたのであった。しかし彼らは母親の信頼をまたも裏切り、ケイを手ひどく扱った。養育に責任をもたないどころか、時には暴力をふるったりまた時には食事を与えなかったりもした。親戚の者たちの虐待は家の中では毎日のように続き、家の外ではケイの命を危険にさらすほどでもあった。どう考えてもこの親戚の者たちはケイを殺しにかかっているとしか言いようのない仕打ちを何度も繰り返したのであった。たださすがに直接手をくだしてケイを殺害することだけはしなかった。
 ケイは船着場から海へ転落したことが一度ならずあった。その都度、はしごにつかまったりあるいは橋げたにつかまったりしてかろうじて難を逃れたのであった。しかしなかでも危険だったのは港に停泊している船から転落した時であった。助けられた時にはもう殆ど息がなかったのだが、船乗りのひとりが、人工呼吸のようにケイの腹をグイグイ押さえたところ何とか息を吹き返しのであった。おそらく親戚の者たちだけだったらケイの命はないところであったろう。
 すでにこの頃からケイは絵に才能を発揮し、人物ばかりか馬や羊あるいは家並などを描いていた。鉛筆やクレヨンなどは高価で手に入らないためチョークや炭、時には木の燃えカスなどを使って絵を描いていた。しかしいとこ達の目の前で絵を描いたりすることははばかられた。自分自身では当然のことながら父親やその兄弟たちの仕事であった石工を継ぐとばかり思っていたが、13歳になった頃、ダルキースに店を構えていた理髪師ジョージ・ヘリオットに徒弟として奉公に出されることになった。
 この人物は大変心優しくケイに接し、ケイも熱心に仕事を覚えた。その間つらい事もあったが親戚の家での辛苦を思えばむしろ幸せな時期であった。6年間の徒弟奉公が終了するとケイはエディンバラ市へ出て、理髪職人として幾人かの理髪師の元で働いた。およそ7年後独立を考えるようになったが、自由市民権を得ていなかったため、まず外科医理髪師組合からその自由市民権を購入することを求められ、1771年12月19日、40ポンド支払うことによってやっと自由市民権を獲得、正式にギルドの一人として認められるところとなりめでたく独立したのである。
 開いた理髪店は繁盛し、お客の中にはエディンバラ市やさらに近郷近在の名士たちも増えてきた。その中で、ダールトン在住のウイリアム・ニスベット氏には格別に引き立てられ、エディンバラ市内は言うに及ばず、スコットランド各地への遊山を共に楽しむ栄誉をいただくことになった。氏の晩年(特にその死の2年前にあたる1783年と1784年)にはその屋敷に逗留することもしばしばあった。
 氏の屋敷に赴く時は仕事を休み、その自由な時間を使って絵を描くことを許されたのであった。ニスベット氏はケイの精進する姿を大いによしとし、絵の修練を心行くまでつむよう激励したのであった。この間ケイは数多くの細密画をものにし、そのうちの幾つかはダールトン在住の氏の遺族の所有するところとなっている。
 時間がいささか前後するが、ケイは20歳になった時リリー・スティーブンという名の女性と結婚。彼女との間には10人の子をなしたが、長男でニスベット氏の名付けになるウイリアム以外は生まれて間もなく死亡した。唯一のこった息子ウイリアムは父親の絵の才能を受け継いでいた。ケイ夫人は1785年死亡、2年間のやもめ暮らしの後、現在の妻となるマーガレット・スコットと再婚、この「伝記」執筆時までつつがなく暮らしている。
 ニスベット氏は生前から画家ケイへの援助としていくばくかの年金与える約束を幾度かおこなっていた。それと言うのもたびたびケイを遊山に誘い出しケイの生業である理髪業の邪魔をしているという思いがあったようだった。またその詫びの気持ちは、ケイがニスベット氏のお供で家を留守する度に夫人にいくばくかの金銭的援助を欠かさなかったことにもよくあらわれている。しかし実際にはニスベット氏の生きている間にはこのような年金がケイに与えられることはなかった。そうこうするうちにニスベット氏はこの世を去ってしまったのである。しかしニスベット氏の財産を相続した人々は、ケイが生前のニスベット氏に対して示した親愛の情への返礼として、ケイに対し20ポンドという終身年金をニスベット氏の遺志として約束したのであった。
 大切なパトロンを亡くした後もケイは銅版画の製作を精力的に進め、その作品は次第に人々に認められるところとなった。ついにケイは思い切って理髪店を閉め、絵描きとして生きる決心をしたのであった。1785年、ケイ43歳のことであった。

 彼自身による「伝記」はここで先ほど冒頭でふれた自画像に対するコメントに移り、唐突に終わっている。そしてそれ以降の彼の人生については恐らく別人の筆によって次のように書き加えられている。

 ケイはハイストリートの議事堂広場(Parliament Square)に小さな版画店を営み、自身の作品を販売していた。その店の窓を通して壁にある数々の作品を見ることができ、道行く人々の目を楽しませた。しかしこの店は1824年の大火で消失してしまった。その死の2年前のことである。
 細身の体をいささか古風な装いでつつみ、常にもの静かであった。1826年2月21日、消失した版画店からさほど離れていないハイストリート227番地で死去。享年84歳であった。夫に先立たれた妻マーガレットは、9年後の1835年11月に死去。
 ケイが銅版画家として活躍したのは1817年頃までである。その約半世紀の間、スコットランドの首都エディンバラ市で何かと人々に噂された人物はことごとくケイのカリカチャの題材となった。ケイは世相を風刺する作品製作に没頭し、その作品はエディンバラ市の人々の喝采をあびるところとなったのである。その作品全体がエディンバラ市の記録となっており、その特異さにおいて肩を並べる作品はスコットランドでは見当たらないであろう。
 ここで「作品集」冒頭の短いケイ伝は終わっている。

 我々はケイの銅版画の中に、旧い世界から新しい世界へ流れ出した人と文化が背後に遺していったものの痕跡を見ることができるであろう。新しい町へ移住しようとした人々によって「旧い」ものと位置づけられ、その背後に遺された居住空間、生活習慣あるいは人々の交流などが彼の作品には描かれている。それはとりもなおさずケイの作品の中にオールドタウンと名づけられた「他者」の実像が読み取れるということではないか。この「エディンバラ奇人伝」とも言うべきケイの作品集については、稿をあらためる。

 
 
 
 
 
   
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