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岡村敬二教授 「戦前期「外地」で活動した図書館員に関する総合的研究」

 
衞藤利夫「本を盗まれた話」再録にあたって
 
一.

 ここに掲載する「本を盗まれた話」は、満鉄奉天図書館館長衞藤利夫が『月刊満洲』(第12卷1號 康コ6(1939)年1月、第12卷第3號 康コ6(1939)年3月)に寄稿したものである。内容は、大正10(1921)年秋、奉天図書館新築間もない頃のこと、図書館が古書店から購入したアレキサンダー・ワイリー(Alexander Wylie、偉烈亜力)の未刊草稿12冊が盗難に遭ったその顛末である。
 アレキサンダー・ワイリーは、中国に渡ったイギリスのロンドン宣教会宣教師でシノロジストとしても名高い人物である。1815年4月ロンドンの生まれで、父親はスコットランドからロンドンに移り住んで絵の具を販売していた。ワイリーは中等教育を終えて指物師をしていたがそのかたわらで中国に渡りたいと考え、漢訳聖書などにより中国語を独習した。ロンドン伝道会が上海に創設した出版社墨海書館の経営に任じられ1847年に中国上海に渡って伝道につとめた。その間、中国の古典や数学・天文学・言語・歴史・地理などの分野の研究に励んだが、過労のために失明し1877年に帰国、ロンドンん北部のハムステッドに住んだが1883年1月6日に亡くなっている(衞藤利夫「本館所蔵名著解題Alexander Wylie 書誌概略」『収書月報』21号 昭和12年10月。なおこの文章には、ワイリー自筆未刊行稿本を昭和5年にロンドンのマグスブロス書店から入手したとあり、盗難騒動のワイリー未刊草稿とは別にあらたに草稿を購入したことがわかる)。
 ところで、大正10(1921)年に古書市場に出て購入後盗難にあったというこのワイリーの草稿とは、「易」「春秋」など経書の英訳草稿、中国・満洲・女真などの言語学・人種学、中国の天文学・数学などについて同学の士とやり取りした書翰の控えやそれに覚え書きなど未刊行の手稿など12冊で、それを当時三千円という高価な値段で奉天図書館が購入したものであった。
 この草稿の購入を決断したのはもちろん衞藤利夫で、当時の衞藤はと言えば、大正8(1919)年に満鉄に入社し、翌9年1月に満鉄奉天図書館の主事となったばかりで、館長に就任したのが大正11(1922)年5月と、満鉄および満鉄の図書館にあってはまだまだ駆け出しのころのことであった。
満鉄では駆け出しであるとは言え、衞藤は東京帝国大学文科大学選科卒業後には内田魯庵らと親交を結びながら翻訳などに勤しんできた新進の著述家でもあり、魯庵編輯の丸善『学鐙』などにもすでに多くの文章を執筆していた。それゆえ満鉄に入社して図書館に配属されても周囲から一目置かれた人物であったことは確かではあろう。
 とはいっても、満鉄図書館というのが沿線住民ら一般に広く開かれた公共の図書館でもあり、また本来は満鉄社業の図書館であったわけで、こうした社業や住民に対して直接的に資するわけでもない資料の購入に対しては、「満鉄社内からの誰からも面と向って叱られたことはなかったが、随分馬鹿な買物をしたとの、蔭での非難は可なりに喧しかった様子」(「本を盗まれた話(上)」)で、間違ったら首になる覚悟という状況であったともいう。


『月刊満洲』(第12卷3號 康コ6(1939)年3月)

 当時の三千円と言えばたいそうな金額である。たとえば手近の満鉄図書館機関紙『書香』2号(大正14年)に、幣原坦『朝鮮史話』(富山房 大正13年)の書評が載るが、それは531頁もの大著で3円50銭とある。そんなことから考えると当時の三千円といえば三百万円は下らぬところだろうか。こうしてようやく購入した資料であったが、ある夜館内に忍び込んだ泥棒に、この草稿一式と「南洋アンボイナにおけるオランダ政庁の日本人漂流民虐殺一件記録」を盗まれてしまったわけである。衞藤は大変なことになったと報道機関などにも報道を控えるように手を打ち、あれこれと気をもんでいるうちに、幸いなことにこの資料は無傷で図書館にもどることになり、犯人も知れることとなった。この『月刊満洲』の記事はそんな顛末を回想したものであった。

 
二.

 ところで実はこのワイリー草稿盗難の顛末は、すでに『学鐙』(昭和3年6月から8月号)に論述がありそれは昭和15年滿鐡社員會刊行の『短檠』(020.4/Eto)に収録されている。この『学鐙』版(昭和3(1928)年6月)と、ここに再録する『月刊満洲』版(康コ6(1939)年1月)では、細部に少し異動があり、また『月刊満洲』版の方はイニシアルを排して実名が挙がっていて事実関係が明らかである。そして掲載雑誌の性格や読者を考慮に入れてのことでもあるのだろうが、さらにまた発表の場がいわば勝手の知れてきた「満洲」ということもあって、この『月刊満洲』版の方が読み物としてうまく仕上がっており読んでいて面白い。さらにもう一点、この顛末に見え隠れしているように、満鉄社内にあって、このような資料収集をめぐる奉天図書館の位置取りについて、この『月刊満洲』版のほうがいっそうよく伺われるということも再録の理由のひとつである。こうした満鉄図書館の資料収集をめぐる満鉄社内での不満は、実は大連図書館においても同様に存在していたものでもあった。このことについて少し触れておく。
 ここで衞藤が「随分馬鹿な買物」、といみじくも語っているように、満鉄社内では衞藤の奉天図書館での集書については批判があった。大連図書館の方でも古今の漢籍や欧文中国関係図書、オゾ文庫といわれるロシア人による満洲・蒙古・シベリア・中国研究資料なども収集したのだが、大連図書館はといえば満鉄本社の向かいに位置する満鉄第一の図書館であり、社業の図書館として、満鉄調査部など広範な調査業務に資する図書館という性格からすれば、こうした広範な資料収集や蔵書の構成については、社内に不満があったとしても、まだしも大義は存在していたといってもよいだろう。この大連図書館の漢籍資料収集については、特別予算が付いたのが大正11年・12年およびそれ以降、オゾ文庫の購書も大正11年、欧文中国関係図書の収集は大正14年といった時期であった。一方の奉天図書館のワイリー草稿購書は大正10年とあり、満鉄図書館草創期の蔵書構築の時期であったとは言え、衞藤渡満2年後のこと、二番手の満鉄奉天図書館でのこの購書は大したことであり、ましてやその盗難など、もってのほかの事態であった。
 ところで、大正10(1921)年に古書市場に出て購入後盗難にあったというこのワイリーの草稿とは、「易」「春秋」など経書の英訳草稿、中国・満洲・女真などの言語学・人種学、中国の天文学・数学などについて同学の士とやり取りした書翰の控えやそれに覚え書きなど未刊行の手稿など12冊で、それを当時三千円という高価な値段で奉天図書館が購入したものであった。
 衞藤がこの『月刊満洲』に執筆したのが昭和14(康徳6、1939)年、満洲での図書館生活も20年を経た時期であり、図書館在職20年の間に「名著」といわれるものも数多く購入してきている。奉天図書館では『奉天図書館名著解題』を刊行して内外に資料の紹介をしてきた。この「本を盗まれた話」もそうした時期から回想した文章で、結局資料も手元にもどり事なきを得たわけであった。それゆえこの回想が当時の状況を正確に映したものであるかどうかは知れぬところであろう。ワイリー草稿購入についても、それを購入した時期に、周囲から実際に「随分馬鹿な買物をした」と批判されたかどうはわからない。
 さらに昭和14(1939)年はと言えば、4月には満鉄にいわゆる大調査部が設けられ、昭和12(1937)年12月の満鉄諸機関の満洲国への移譲以降満鉄に残った大連図書館・奉天図書館にあっても、図書館としての自立した地位も奪われて調査部に従属させられようとした時期でもある。おりしも昭和15(1940)年4月、満鉄社員会の会誌である『協和』には、「図書館の悪臭」と題した文章が載り、大連図書館のことを示しながら「ただ館長といふ人格を中心に運営されてきた同館のいはば中世的ギルド的性格」はすでに破綻していると皮肉たっぷりに批判され、それは奉天・哈爾浜図書館にも当てはまると述べられた。この「中世的ギルド的性格」の含意するところの大きな部分が、その館長の手になる資料収集にあると言ってもよいかと思う。資料の収集というものが図書館の活動を大きく規定していくからである。


衞藤利夫「本を盗まれた話 下」記事
『月刊満洲』(第12卷3號 康コ6(1939)年3月)

 こうしたことを勘案すると、この『月刊満洲』版の「本を盗まれた話」は、満鉄図書館が大きな変貌を余儀なくされようとしていた昭和14(康徳6、1939)年の時点で大正10(1921)年の出来事を、回想エッセイとして書かれたものであるということを念頭において読まなければならないだろう。そしてだからこそ、この文章は、執筆当時の衞藤の心境がほの見え、さらにまた奉天図書館新築当時の図書館の性格がうかがえ、図書館に対するシンパサイザーの存在やその発言が細部にわたって述べられた文章となっているのではないかと思う。これがここに『月刊満洲』版を採録することの意義である。

 
三.

 つぎに『月刊満洲』への衞藤の寄稿の次第について述べておく。これについては『協和』昭和11年1月15日号に衞藤が書いた「陽を見るまで」に言及がある(衞藤利夫『韃靼−東北アジアの歴史と文献』地久館出版 1984年 に所収)。
 それによると、昭和9(1934)年春ごろに衞藤には、「ちょっと背負ひ切れさうもないが、しかし何とかして是非義務を果たしたい思ひでひしひしと責めらるゝ稿債が二つあった」という。そのひとつが『月刊満洲』であり、その編輯長で社主の城島舟禮に対して何か書かねば済まぬと考えていた。もうひとつの原稿は前満洲国資政局長で『大亜細亜』誌を編輯していた笠木良明に対するものであった。これらふたつの稿責に対して書き下ろすことが困難な状況で、しかたなく置いたままにしていた旧稿から抜き出して「奉天城内から見た奉天会戦」と題した原稿を撫順の城島舟禮に送った。舟禮はこれを組んだが発刊期日に間に合わず、また分量も多くて編輯上難しいこととなった。その結果組版を舟禮から笠木に譲ることとし、それが『大亜細亜』2巻7号(昭和9年7月)に掲載された。そこに「旧稿の一部」であることが記されていたことから増田正雄の尽力で、その全文がクリスティ原著 衞藤利夫述『満洲生活三十年 奉天の聖者クリスティの思出 』(大亞細亞建設社 昭和10年7月)として誕生することとなったとの次第であった。
 衞藤はこのように城島舟禮とは知己であり、撫順と奉天とは距離的には近いこともあって親しくもしていたのであろう。こうしたことから、舟禮の『月刊満洲』への執筆の責は、いったん出稿されたものの掲載には至らず、中途半端なものになって終わり、舟禮に対する義理は果たされぬままになっており、それがこの昭和14(1939)年に掲載された「本を盗まれた話」として結実したのであった。


右が衞藤利夫(『第31回全國図書館大會記念冩眞帳』
満鉄学務課図書館係 昭和12年12月

 笠木良明は大雄峰会を組織して満洲国建国に走った人物であり、城島舟禮は満洲での大衆的な雑誌を長年にわたって編集した人物である。このように満洲の地で雑誌編輯を行なっていた両者が、この「盗まれた本の話」をめぐって関わり合いをもちつつ掲載にいたったという経緯もなにか因縁のようなものが感じられて興味を惹かれる。

 
四.

 『月刊満洲』誌上における衞藤執筆分および衞藤関連分は、いま知れる範囲では、この「本を盗まれた話」のほかには、寺田生「新刊紹介 衞藤利夫氏の「滿洲生活三十年」(第8卷8月號 昭和10年8月)、衞藤利夫[述] 文責田村光子「裏日本と満洲」(12卷第5號 康コ6年5月)である。
 寺田生は寺田喜治郎であろう。寺田喜治郎は明治18(1885)年岡山県の生まれで東京高等師範学校を卒業し各地の中学校教諭、京都府地方視学、大谷大学専門部教授を経て大正13(1924)年11月満鉄に入社した。それ以降は満洲教育専門学校教授、撫順中学校長、奉天中学校長、昭和11年4月に満鉄奉天第一中学校校長、昭和13(康徳5、1938)年11月民生部教育司編審官、昭和10年4月文教部教学司編審部長となった(『満蒙日本人紳士録』昭和4年、『満洲紳士録』昭和15年、『満洲紳士録』昭和18年)。昭和7年5月に月刊撫順社から『教育を打診する』を刊行している。また寺田は撫順中学校の国語教員時代、教員による国語夜話会を組織し月二回例会を開催して国語教育の研究につとめた。『コドモ満洲』はこの会の編輯でもあり、全満各小学校で課外読物として絶賛をうけた(城島「身辺雑記」『月刊満洲』昭和9年4月)。衞藤利夫[述] 「裏日本と満洲」の文責とある田村光子は『月刊撫順』『月刊満洲』誌上に婦人論など多くの論考を寄せている人物である。
 『月刊満洲』(前身は『月刊撫順』)はこのように、満洲に住するさまざまな人物の論考などが掲載され、それらを拾っていくことでさまざまな事柄がみえてくるわけであるが、「本を盗まれた話」はこの『月刊満洲』誌にふさわしく、衞藤の面目躍如といった感のある文章となっている。

 
五.

 さて「本を盗まれた話」であるが、その顛末は本文を読んでいただくとして、ここではこの衞藤の回想に登場してくる人物について、知れるかぎりのところを順に述べておく。

〈佐伯好郎〉
 このワイリー書簡の価値を衞藤に説いたのは佐伯好郎であった。佐伯は明治4(1971)年広島県の生まれ。東京専門学校を卒業後に渡米しトロント大学で言語学を学んだ。帰国してからは早稲田大学・東京高等師範学校で教鞭をとっている。その後内村鑑三が校長を勤める独立女学校の教頭、また大正5(1916)年からは東京高工で教えた。衞藤と会ったのはこの東京高工教員時代のことである。この衞藤と会う大正10年までに、佐伯は英語の教科書のほか、明治44(1911)年には『景教碑文研究』(待漏書院)を著していた。昭和6(1931)年からは東方文化学院東京研究所の研究員を勤めたが、当時から景教研究においては名を知られた人物であった(大村喜吉ほか編『英語教育史資料 第5巻』東京法令出版 1980年)。著作には『景教の研究』(東方文化学院東京研究所 1935年)、『支那基督教の研究 第1-2巻』(東方文化学院研究報告、春秋社松柏館 1943年)などがある。なお景教とは中国で盛んに布教をおこなったキリスト教ネストリウス派のことである。
 このワイリーを購入する時点で衞藤は、謙遜半分だろうが、自分は「支那学」のことは何にも知らなかったと述べている。「支那学」についてはともかく、衞藤は渡満までのあいだにロシア文学をはじめ、ケンペルについての訳述など多くの訳著を持っており、近世に中国・日本など東洋へと布教や商用・研究のためにやって来た西洋人について関心を持っていたであろうことは容易に想像することができる。
 またこのワイリーの購書を手始めとして衞藤は東洋学の勉学も始めたと述べているが、その通りであったろう。そしてその後も奉天図書館では、西洋人宣教師の中国での活動をめぐる資料を積極的に購入していくことになる。また衞藤自身は、この満洲の地で、図書館活動だけなく社会運動においても活動を展開していくことになるのだが、衞藤の満洲でのこうした活動のパトスとでも言うべきものには、この西洋宣教師の使命感や伝道への意思などと一脈通じるものがあったのだろうと思われる。そうしたことを考えあわせてみると、衞藤にとってこのワイリー草稿の購入および佐伯との出会いはまことに大きな意味を持ったものであったと言ってよい。事実その後も衞藤はこれら西洋人宣教師の中国での活動についての資料を奉天図書館に購入し、それら購入された資料は、その後に展観や資料紹介で世に知らしめられていく。衞藤の著作として『奉天図書館名著解題』と題され奉天図書館で刊行されたものを挙げれば次の通りである。

  • 第1冊 ピントの東洋旅行記 昭和5年
  • 第2冊 衛匡国の「韃靼戦記」昭和5年
  • 第3冊 南懐仁の「満洲紀行」昭和5年
  • 第4冊 李明の「支那記」昭和5年
  • 第5冊 ロシアの極東経略遡源 昭和6年
 

〈橋本喜代治〉
 ワイリーの未刊草稿が奉天図書館に到着したとき、その記事を書いたのは新聞記者の橋本喜代治である。橋本は明治22(1889)年福井県今立北日野村の生まれ。福井県立武生中学校を卒業後日本大学に学ぶ。福井市の北日本新聞社に入社、大正元(1912)年東京毎日新聞社その後東京毎夕新聞社を経て大正9(1920)年6月奉天毎日新聞社に入社。遼東タイムズを起こしたがあらためて昭和4(1929)年6月満洲日報社入社、昭和6年4月整理部長、11年には満洲日日新聞社奉天支社長・主幹、その後経営局次長を経て局長となる。この間奉天日日新聞主幹を兼務。昭和15(1940)年4月に退社し蒙疆新聞社華北総局に勤め、雑誌『日本一』『日本農業雑誌』の編輯もおこなった。著作に『日本青年文庫』『軍歌物語』『欧州大戦物語』『鉄道修養訓』などがある(『満洲紳士録 昭和12年版』、『満洲紳士録 昭和15年版』)。
 衞藤がこのワイリーを購入しその盗難にあった大正10(1921)年といえば、この橋本は、その前年に渡満して奉天毎日に入社したばかりの30歳過ぎ新入社員、張り切って取材をしていたと思われる頃のことで、衞藤とは渡満時期が前後しており二人は親しくしていたことでもあろう。そうした交友のさまは、文中で「今では頭の禿げた」などと軽口をたたいているところからも伺える。そんな橋本が、大正10年のこのワイリー購入時の記事を衞藤の写真入りで報じてくれたわけだが、今回の盗難事件に関しては義理を立てて口をつぐみ報道を控えてくれたというわけであった。

 

〈岸本憲明〉という満鉄奉天図書館の司書についてはいま詳細はわからない。

 

〈末光源蔵〉
 末光はワイリー盗難当時の奉天警察署長である。明治11(1878)年大分県北海部郡小佐井村の生まれ。明治32(1899)年4月台湾総督府巡査、38年10月文官普通試験に合格し明治39(1906)年警部補42年警部。44年1月関東都督府に転任し旅順民政署警務課長、大正8(1919)年8月鉄嶺警務署長、翌9年11月旅順警務支所署長、10年2月関東庁警視兼外務省警視、同年12月営口警務署長、11年8月奉天警察署長となり大正13年11月退任。その後奉天において貿易商を始め、奉天温泉会社社長、奉天地方委員会議長。従六位勲六等(『支那在留邦人興信録』1926年、『満蒙日本紳士録』1929年)。昭和7(1932)年9月23日死去している(デジタル版日本人名大辞典Plus http://kotobank.jp/word 2009/12/24)。文中で衞藤は、直接には知らぬが同じ警察官で支那の秘密結社の研究をしている末光氏の父親ではなかったかと推測しているが、先の『満洲紳士録』などでは末光の子は養子で挙とある。衞藤の言及する秘密結社の研究者は末光高義(『支那の秘密結社と慈善結社』滿洲評論社 昭和7年などを刊行)で、これは別人物かと思われる。末光高義は明治24(1891)年愛媛県東宇和郡の生まれで本籍も同所。高等小学校を卒業後大正7年警察官となり鉄嶺警察署などに勤務し警部補などを経て警務局高等警察課情報係主任などを勤め、中国の秘密結社のことなど調査し研究結果を刊行している(『満洲紳士録 昭和12年版』ほか)。

 

〈竹中政一〉
 次は当時の奉天地方事務所長で、ワイリー盗難にあたって「衛籐さん、あの本は必ず出ますぜ」と励ましてくれ、そのうえ会社の方の責任は引き受けるからとのやさしい言葉に衞藤がひそかに涙ぐんだという竹中政一である。竹中は明治16(1883)年兵庫県城崎郡新田村の生まれ。明治40(1907)年4月神戸高等商業学校卒業し満鉄書記として5月に入社。撫順炭鉱、運輸部大連駅駅務助手、車掌見習い長春駅助役などを経て大正4(1915)年3月運輸課旅客係主任、8年総務部社長室文書課長、11年社長室参事、12年奉天地方事務所長、13年3月北京公所長、大正15(1926)年3月経理部部長を勤めた。昭和10(1935)年7月退職し臨時最高嘱託・銑鉄共販専務・日印通商代表・協和鉄山副社長・満業理事など歴任した。また明治42年9月から3ヶ月欧米の鉄道鉱山を視察もしている。(『支那在留邦人興信録』1926年、『満蒙日本紳士録』1929年、『満洲紳士録』昭和15年)。

 

〈佐竹義継〉
 このワイリー盗難の一件で親身になり心配してくれたのは当時満鉄本社図書館係主任の佐竹義継氏だった。佐竹義継は明治22(1889)年京都市堺町松原上夕顔町の生まれ、明治43(1911)年東京中学を卒業後哲学館に入学するが退学し島田重禮の設立した雙桂精舎に学ぶ。京都帝国大学附属図書館に勤務するが同年の明治43年5月渡満して満鉄に入社し地方課教育係・学務課図書館係主任参事。図書館担当として草創期の満鉄附属地図書館の整備に尽力し11月以降には沿線に図書閲覧場が開設となり、閲覧場のない地域には巡回文庫を編成して巡回させた。著書に『幕末勤王烈士手翰抄』(佐竹義継編 実業之日本社 明治42年)がある。


「佐竹義継氏逝く」(『書香』23号 昭和6年2月より)

 また支那現代の貨幣の研究にも勤しんだようである。昭和5(1930)年9月職を辞して満洲を離れて帰国し京都に帰るも昭和6年1月2日京都で死去、51歳という若さであった。1月15日には大連で、2月1日には奉天で追悼会が開催された(『満蒙日本人紳士録』1929年、「佐竹義継氏逝く」『書香』23号 昭和6年2月。なお『書香』には満鉄地方部学務課長太田雅夫の弔辞も再録される)。

 

〈内堀維文〉
 ワイリーが発見されたときに衞藤は奉天中学校に講師として出講していた。この奉天中学校長は内堀維文だった。内堀は明治5(1872)年熊本県玉名郡南関町の生まれ。明治31(1898)年高等師範学校卒業後同校助教諭兼訓導、明治36年8月現職のまま清国山東省師範学堂総教習として招聘される。42年神奈川県師範学校校長、その後静岡県・長野県校長を経て大正6(1917)年7月満鉄入社、南満中学堂長、大正8年奉天中学校長を兼務。大正12年旅順工大教授、昭和3(1928)年帰国して大東文化学院教授。昭和8(1933)年1月1日死去。著作に、『中等教育漢文教授法』(金港堂 1903年)、『海外雄飛の模範的青年岡本米藏』(内堀維文著述 峰間信吉編 大阪教育社 中興館書店 1916年)などがある(『支那在留邦人興信録』昭和元年、デジタル版日本人名大辞典Plus http://kotobank.jp/word 2009/12/24)。昭和7(1932)年8月『書香』41号所載の「満鉄図書館自己紹介その2 奉天図書館施設概要」に「ここ2箇月中に於ける主なる来館者とその調査研究乃至来館者提唱相談の項目」が挙がり、「満洲国の教育制度起案四庫全書保存方提唱」とあるが、大東文化学院教授となってからも内堀は奉天図書館に数回来館していることがわかる。

 

〈植田梶太〉
 このワイリー未刊草稿が、領事館の廃物処分の売り立てで、「三八」という古物屋に出されていることを通報したのは、奉天浪華通りで骨董店山陽堂を営む植田梶太であった。梶田梶太は明治8(1875)年3月岡山県吉備郡菅谷村の生まれ。明治28(1895)年近衛師団に入営、次に陸軍戸山学校に学び、義和団の乱で従軍する。また日露戦争では経理部員として広島師団司令部に勤務した。明治40(1907)年関東都督府警察官として奉天警察署勤務、在職6年の間に中国語を善隣書院で学ぶ。大正2(1913)年退職して書店山陽堂を開業して図書・雑誌の販売と新聞の取次ぎを行なった。大正6(1917)年には浪華通りに大きな店舗を新築して営業するも大正11(1922)年12月には書店を大阪屋號に、新聞雑誌取次販売の権利を弘文堂に譲渡し翌12年美術店を開いて山陽堂書画骨董店と号した。店の2階には陳列室をつくって中国古代の美術工芸品のうち数百点を厳選して展観、当地の文化人たちと交流して楽しんだ。奉天実業信用組合長・奉天岡山県人会副会長・奉天古物商組合長・奉天美術倶楽部理事を務めた。勲七等(『満洲紳士録』昭和12年、『奉天二十年史』昭和2年)。資料の購入や文物の消息などで日ごろから親しくしていたのであろうそんな交流が、この一大事の時にあたって大きな助けを呼ぶことになったわけであった。

 

〈白崎喜之助〉
 骨董商植田梶太の通報で古物屋「三八」に出たワイリーを取り戻すべく店主と交渉を始めた衞藤であるが、そこへ通りがかったのは奉天商工会議所議員で後に奉天地方委員となる白崎喜之助であった。白崎は明治15(1882)年福井県吉田郡松岡村の生まれ。小学校を卒業後製糸織物業に従事したが辞して明治35(1902)年6月神戸郵便局に勤務、日露戦争では奉天会戦に参加した。明治39(1906)年4月朝鮮仁川・太田の郵便局に就職、明治40年5月退職して龍山居留民団の書記、41年7月関東都督通信管理管理局に転職し大連・安東の郵便局を経て45年奉天郵便局。大正6(1917)年6月辞職して実業に転じ両替商寶泉銭荘を開業、また奉天駅三等待合所売店も経営。大正10年3月第四区長、11年6月、13年6月と奉天商工会議所議員、大正14(1925)年10月奉天地方委員などを兼務。勲八等(『満蒙日本紳士録』1929年、「奉天草分の人々」『奉天二十年史』1927年)。

 
六.

 以上がこの「本を盗まれた話」に登場してくる人物である。このようにして登場してくる人物をみてくると、満洲にわたって間もない衞藤ではあったが、当時すでに多くの奉天の人士と交流があり、それは官吏や実業家から新聞・出版関係者までと、その交流の広さに驚かされる。そしてまたそれらの人物との交友関係のおかげでこのワイリー未刊草稿なども発見されて無事図書館にもどったというわけであった。
 そしてここまでみてきたように、このワイリー草稿の購入と盗難、そして返還へといたるこの一連の出来事は、その後の衞藤利夫の資料収集にとって、また奉天図書館の蔵書構築にとっても大きな意味合いを持つこととなったと思う。それは奉天図書館でのその後の購書や資料展示、また資料解題などの形式で刊行された出版活動をみればよく理解できるところだ。そしてまた何よりも、『韃靼』に収められた衞藤の、中国にやってきた宣教師らの論述にみられるその力点の入れ方や共鳴の度合いをみれば、それはまたよく理解できるところではないかと思われるのだ。

(2009年12月20日 岡村記)

 

附記:『月刊撫順』『月刊満洲』のうちでこれまでにみることができたものの目次一覧を、科学研究費補助金(基盤研究C)研究成果報告書『戦前期中国東北部刊行日本語資料の書誌的研究』に収載した。あわせて参照していただけると幸いである。

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