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岡村敬二教授 「戦前期「外地」で活動した図書館員に関する総合的研究」

 
「本を盗まれた話」再録
(『月刊満洲』 第12卷1號 康コ6(1939)年1月、同第3號 同年3月)
 
本を盗まれた話(上)
衛藤利夫

 奉天図書館の蔵書和漢洋を合わせて十萬巻、これだけ集めるのに二十年かゝり、人生五十年の最も働き盛りの二十年を、主としてその積集のために献げてしまって、別に惜しいとも思はぬが、何か一つ位、これだけのもののうちには、世界に類のない、他の如何なる大きな図書の集積を以てするとも及びもつかないものはないか?
 他から見たらどうか知らぬが、自分のミソを云へば、それ程のものはなくとも、やゝそれに近いものが、一つや二つはありさうだ。然るに、その一つ、恐らく奉天図書館が世界の學界に誇示し得べきたった一束の未刊行の手書原稿を、マンマと泥棒にしてやられて、ベソをかいた話。
 図書館を新築して、今のところに引越して間もない時のことだったから、大正十年の秋だったと思ふ。倫敦のマグスと云ふ古本屋から、アレキサンダァ・ワイリー(漢名、偉烈亜力)と云ふ支那学者の未刊の遺稿が売物に出た。値段は三千円と云った。
 だが、そのときの自分は支那学のことは、何にも知らなかった。―今でも知らぬが、その頃までは、支那学の門前の小僧ですらなかった。
図書館なんぞ、今でなら『中央公論』か『改造』か『主婦の友』か『キング』と云ったところであらうが、そのころ流行の豆本の『猿飛佐助』か『自雷也』でも列べて置いて、利用者殺到、貸出しの数字の昇ること昇ること、これが即ち社会教化となん申すものだと、顎を撫で廻して居ても結構図書館屋が勤まった時代だ。読者のあるに任せて時流に媚びる俗本でも買って置けば何の苦労もないものを年額僅かな図書費に、ダイそれた三千円!こいつあ考へさせるワイ 何としたものでせうと、相談をもちかけたのは、その頃、折よく奉天に見えた景教学者の佐伯好郎先生だった。
 ワイリーの名で驚いたのは先生の方だ。これこそ世界に二つとない、東洋学界の至宝だ。貴下が買はなきや、借金してでもわたくしが買はう。電報でないと、他に取られさうだと脅された。
 何ぼ時流文学の豆本、円本以外には何にも知らぬ自分でも、佐伯先生は、世界的の景教学者であると云ふこと位、薄らボンヤリ乍ら知って居た。その優れた学者が、これほど云はれるなら大体間違ひはあるまい。よし来れ、とばかり電報一本でポンと三千円を投げ出したものだ。無論間違ったら、首になる覚悟もしていた。
 この処置については、その後満鉄社内の誰からも面と向かって叱られたことはなかったが、随分馬鹿な買い物をしたとの、蔭での非難は可なりに喧しかった様子。
 馬鹿な買い物であるか?或は、この一束あるが爲めに、奉天図書館は、世界の東洋学界に、唯一無二の誇りを持ち得るか?実はその時代の自分には、残念乍らそれをハッキリ云ひ切る自信がなかった。自信がなくて、このマヌスクリプトのお守りが出来るか、と思ったのが、そもそも、東洋学なるものを、少しでものぞいて置かねばならぬと云ふ気になった初まりだ。

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 それから十八年の年月が流れた。こゝで、ワイリーの東洋学、特に支那学に於ける造詣がどんなものであり、その未刊原稿が、如何に此界の珍宝であるかを、クドクドしく云ふのはやめる。その代りに、自分か今日に於てもこの買い物を悔いては居ない。満鉄会社の図書費を、無意味に使ったんぢゃないと、それだけ云へばいゝと思う。それどころか、蔵書二十萬巻は、他にこれをまた集める人はあらうが、ワイリーの原稿のみは、断じて再び入手出来ない。自分が支払った図書費のうちで、これが最も有意義な使ひ方だったと、今では確信を以て云ひ切ることが出来る。
 だがこれは当時に於ける自分の識力から獲たものではない。偶然買った原稿が、案外な掘出し物、未刊原稿の筆者が、歳月を経るに従って、その真価を発揮するほどの、実質のある大物であったことは、天が自分に幸ひしたんだと云ふより他はない。彩票が当たったやうなものだ。
 ところが、それ程の、唯一無二の原稿を、図書館の陳列箱から、一夜キレイに泥棒に持って行かれてしまったのである。泣いたって地団駄踏んだって追っつくこっちゃない。  この一束の未刊原稿が奉天に着いた時は、可なりにジャーナリズムが躍って、ビッグニウースとして取扱った。今は「満日」に納まって、頭が禿げて、財界の老大家見たいに落ちついている橋本喜代治君が「奉毎」の陣営で颯爽たる記者振り、自分で原稿も書く、編集もする。工場に油だらけになって植字もやるといった風に、若い元気で張り切って居た時分で、僕のポート・レート入りで、その未稿本のこと、おまけに三千円也と云ふ値段にまで吹聴に及んだものだ。春秋の筆法でいえば、このニュースの取り扱い方によって、橋本君等その他の新聞人が、何者かをして奉天図書館からその原稿を盗ませたと云ふことにもなりさうだ。イヤ、ハヤ。
 今こそそんな冗談を云ふが、その時はそれどころぢゃなかった。
 たしか大正十一年の初冬だったかと思ふ。何かの用があって城内に行って帰って来た。城内で、無限に沢山の烏が飛んで居たことを憶えて居る。館に行くと、総員色を失って居る。特に閲覧室の方を担任して居た責任者の岸本憲明と云った青年なんぞ、死人のやうな顔をして、殆どあがってしまって居る。
 自慢で、陳列棚に並べて置いたその原稿本が、根こそぎ無くなって居ることが発見されたのだ。棚はガラス戸で、施錠してあったが、釘かナイフかで、その錠をこじ開けた跡がある。恐らくその前夜に、何者かが館内に忍び入ったのであろう。
 岸本以下の震え上って居る館員から、盗難報告を一と通り聴き終ると、僕は、何と云ふこともなしに、『安心し給へ、この本は出るよ。』と云った。
 確信があったわけでもないが、自分と、並びに同僚に対するその気休め、慰め、と云ったやうな気分もあって、そうハッキリと云ってしまった。云って仕舞ったあとで、本当に、必ず出て来さう気がした。
 それから直ぐ図書館を飛出して、まづ新聞記事を止めにかゝったローカルでは『大陸』『奉毎』『奉天』の三新聞、その他、『遼東』と『満日』の支社にも廻り、『大朝』「大毎」にも駆けつけて、事情を具して、記事は発表して貰はぬことにした。皆、平素心易く交っていた間柄で、僕の苦衷を諒として、新聞には書かぬことにして呉れた。
 それから、柳町の日吉町にあった当時の奉天警察署に行って、末光源蔵と云った当時の署長さんに、被害の事情を詳しく話した。そして、善処して貰ふことにした。
 末光君が、あとで退官して、満鉄の地方委員になった時僕も同期の一員で、何かと世話になったりなられたり、日本の中央政府に対する当時の対満策の革新運動などでは、同志として働くことになったのであるが、その後病を得て故人になった。直接には知らぬが、やはり警察官で、支那の秘密結社の研究をして居られる末光さんの先考ではなかったかと思ふ。
 警察は出来るだけの手配はしたらしい。新聞は黙々として何も書かない、その静まり返った世間が、自分には、身を切られるやうにつらい。
 ところで、今一つの問題は、満鉄会社へ対する事務的の手続きをどうしたものか?何ぼ何でも、オメオメと盗まれましたなどと報告が出来るものではない。況してや、多大の反対あるべき形勢を押し切って、独断で買ったあとだったものを。
 その時の奉天地方事務所長は、今日の満業に居られる竹中政一氏である。
 地方委員連の宴会があって、粋山に招ばれた時だった。こちらは客、竹中さんは主人側、酒席が大分乱れた頃、竹中さんが僕の膳の前に来て、晩酌し乍ら向ふからその盗難一件を云ひ出した。知らぬと思って居たのはこちらの迂闊で、実は竹中さんは何も彼も知って居た。
 「衛籐さん、あの本は必ず出ますぜ、世界に二つとないものが、盗まれ放しでありやうはない。僕はパリのルーブルでダ・ヴィンチの「モナリザ」の前に、低徊これを久しうしたことがあるので、よく憶えてるが、あとであの画が盗まれたと、これは日本に帰ってから聴いた。「名画の行衛?」は、そのころ世界大戦中に拘らず、全欧の耳目を衝動させたものだったが、たうとう国境の山を越えて向ふから出てきたぢゃありませんか。図書館で盗まれたのも、この世に二つなきものと云ふのが強みだ。慌てずにいらっしゃい。今に出て来ますよ。会社の方はわたくしが責任を引き受ける。出さえすりゃ、それでいいんだから。」
自分は、明るい座敷の眩しい燈影に顔をそむけて涙を呑んだ。
 が、そのうちにそのユニークなものだからと云ふことを力綱にして、それに一縷の望みを託して居た自分を打ちのめすやうなことが起こった。
 この本を盗んだものは、外人ではない日本人だ、日本人なら必ず東京に持って行って、金にしようとするんであらう。自分は一図にこの臓品の、一応の行き先は東京とばかり睨んで居た。東京で金に代らうとする時、こちらの綱に引っかゝるんだと、かう思って居たのに、その東京が大正十二年秋の大震災で、神田本郷の図書の世界が全然潰滅、帝大図書館を筆頭に、ありとあらゆる貴重書も、時流本も、典籍幾千巻が尽く灰燼に帰した。
 ワイリーの原稿も、東京に持って行かれたら、世界無二もヘッタクレもあったものぢゃない。紅蓮の焔に焼かれたんだ。自分にはそれから、暗澹たる絶望の可なりに長い月日が続いた。(続く)

 
本を盗まれた話 下
衛藤利夫

 ところで実はこのワイリー草稿盗難の顛末は、すでに『学鐙』(昭和3年6月から8月号)に論述がありそれは昭和15年滿鐡社員會刊行の『短檠』(020.4/Eto)に収録されている。この『学鐙』版(昭和3(1928)年6月)と、ここに再録する『月刊満洲』版(康コ6(1939)年1月)では、細部に少し異動があり、また『月刊満洲』版の方はイニシアルを排して実名が挙がっていて事実関係が明らかである。そして掲載雑誌の性格や読者を考慮に入れてのことでもあるのだろうが、さらにまた発表の場がいわば勝手の知れてきた「満洲」ということもあって、この『月刊満洲』版の方が読み物としてうまく仕上がっており読んでいて面白い。さらにもう一点、この顛末に見え隠れしているように、満鉄社内にあって、このような資料収集をめぐる奉天図書館の位置取りについて、この『月刊満洲』版のほうがいっそうよく伺われるということも再録の理由のひとつである。こうした満鉄図書館の資料収集をめぐる満鉄社内での不満は、実は大連図書館においても同様に存在していたものでもあった。このことについて少し触れておく。
 大連に於ける初めての年の暮れに、しきりに註文を取りに来るから正月の餅を約束した。が、いくら催促しても、たうとう大晦日の夜の十二時を過ぎても持って来ない。明けて元日、初めて餅のない正月をした。あまりに欲張って註文を背負ひ込んだ餅屋が、苦しまぎれに、何の挨拶もなしに引きはずしてしまったものと後で知れた。これは一例だが、すべてがさう云ったやうな調子で、今まで東京で接してゐた小売商人に較べて、目立ってこの土地の人々には誠意がないと思はせるものがあった。
 大正九年の二月に、奉天の図書館を今度拡大強化することになったから一つ行ってやってくれないかと相談をうけ、その八日に奉天に来た。これが自分の第二の故郷である奉天入りの初めだ。ところがその年の暮れになって、またしてもちょっと不愉快な目に会はされた。
 図書館のことだから、チョイチョイ印刷物を出すので、一二の印刷屋さんが出入りしてゐたが、たしか十二月だったと思ふ。と云ふのは、年賀郵便と名刺を註文したから、左様覚えてゐるのである―仮の名を笹野ということにしておく―先代まで印刷業を相当にやってゐたのが、今度代替りになった印刷屋の若主人なる瀟洒たる美青年が図書館にやって来て、何かやらして呉れと云ふ。店は十間房にあると云った。父の遺業を継いで家を興すつもりだなど、一通り身の上話みたいなことをした。それでは、差当り図書館の印刷物はないが、正月も近いから、年賀葉書と名刺を各幾百枚と、物が物だから堅く日限を限った註文を出した。これが、前の年の大連の餅と同じことで、またしても暮れにも正月にも間に合わず、本人は、それっきり・・いた・ちの道と来た。笹野と云ふ印刷屋の青年との関係はそれだけで、あとは路傍の人となった。が、当時の奉天は今日と異なって、そこの村の衆の噂は、個人的な関係がなくとも、村の人々の耳にはよく入った。聴くともなしに聴いたところによると、笹野印刷店の若主人は放蕩に身を持ちくづして、金に窮した果て詐欺取材とか何とか云った罪名で奉天の領事館警察に入れられてゐたが、獄中で肺病を発して死んだということだった。その青年には、母親が居て、息子が死んでからか、その前からか、何でも十間房に女髪結をして居た。全く孤独の生活だったと見えて、ある年の夏、その髪結さんの家が、ずいぶん長い間閉め切ったまゝになってゐるので、近所の人々が外から戸を開けて入って見た。皆がビックリしたことには、髪結さんは死んで死体が腐乱して居て、他殺か自殺か、病死かすら検定の仕様がなかったということである。何でも、七八月の、暑い盛りであったかと思ふ。一時奉天のグロテスクな猟奇事件として村の噂になったが、それも一時、死因もうやむやのうちに型の通り七十五日で忘れられた。自分なんぞもその当時、そんな風評を新聞で見て、すぐ忘れてしまったくらゐで、これがワイリー盗難事件と関係さへなくば、今頃は根こそぎ知らないことになってしまってゐるところだった。
 ワイリーの原稿は何時まで経っても出て来さうにない。東京の大震災後は流石の自分も殆ど絶望して居た。盗難事件は、世間一般には知れなかったが、本の関係筋には、遠い東京や大阪あたりまで、例えば丸善なんかの人々や、学界の或る方面には知られてゐた。この事で一番親身になって心配してくれたのは、当時満鉄本社の図書館係主任で、今は故人となっている佐竹義継氏だ。佐竹さんはよくよく思案に余ったと見えて、大連で占いをしたところが、この本は近まはりにある。そして盗んだ奴はその仕末に困ってゐる、と云ふ占が出たと言って、自分に手紙で云って来たこともあった。
 今は奉天一中と云ふことになってゐるが、その時分の奉天中学校は、今の校舎の新築が出来て程なくで、校長は内堀維文さん―この人も故人になったが、その内堀さんから頼まれて、時々中学校に授業の手伝ひに行って、怪しげな英語か何かを教へることもあった。ある日、その英語の授業中に、玄関で、急に人が会ひたいと云って来てゐると、小使君が知らせに来た。来訪者は浪華通りの山陽堂さん、植田梶太君だ。山陽堂さんはもと本屋さんで、途中から浪華通りの店を大阪屋に譲って、自らは骨董屋をしてゐたが、もともと本屋さんではあるし、城内あたりの旧家の珍異な本の出物であるとよく知らしてくれたりした。いつかも、何とか云ふ満洲旗人か何かのドラ息子が、支那の監獄にうち込まれてゐる。それを救い出すのに金が要るから、家宝の貴重書を売りたいと云ふからと云って、慌ただしく自分に相談をもって来た。今度もそんなことぢゃないかと思って、教室の生徒をそのまゝに、白墨だらけの手をして、階下に降りてみると、山陽堂さんがいきなり「図書館で何か大変貴重なものが失くなりはしませんでした?」と言う。「失くなりました、西洋人の書いた原稿本です。」「左様でせう。フルスカップのノートや帳簿のやうなものですが、それが今春日町の三八と云ふ古物屋に出て居ます。今朝、領事館の廃物処分の売り立てで、三八さんがセリ落として持って帰りました。私はチラとそれを見たんですが、図書館で何か失くなったことはうすうす聴いて居りましたし、図書館ででもなけりゃ、あんなものはありっこないと思ったものですから、すぐ駆けつけましたが、こちらだと云ふことで、御授業中にお呼び立てしまして…。」
「有難う。植田さん、恩に着ますよ!店は三八ですね?」
と駆け出さうとする自分を抑えて、「これは同業者仲間のことですから、私が内報したことは内々にして置いて下さい。」
「承知しました。決して御迷惑は掛けません!」
と云ふや否や、自分は前へ通る洋車に飛び乗って、急き立て急き立て僅かの距離の春日町の三八に駆けつけた。
 いきなり店の扉を排して入ると、目の前に、今売り立てから運んできたばかりの、十数巻のワイリーの原稿が、うづ高くそこに積まれてゐるではないか!
 自分は、この時の自分の気持ちを、何と云って説明していゝか判らぬ。だが、店の人にはなるだけ自分が泡食ってる様子を気取られぬやうにしなければと思ひ思ひ、ドキつく胸を抑えて、そこの主人に交渉を開始した。
 「これは城内の居留民会の処分品でしてね。それ何時か、十間房の髪結で、殺されたか、病死したかわからぬ事件があったでせう。あの家が死に絶えてしまったものですから、家の中の品物を民会が、領事館で競売にしたんです。これは何でも、地下室の石炭箱の中に入って居たものださうで、私どもには判りませんが、このビッシリと何百枚も書いてある横文字の、丹念な書き方を見て、普通の帳面類ぢゃないと、そこは商売ですね、ピーンと来たのです。反古の値段にしちゃ少し高く買ったんです。」
 で、自分は、実はこれこれとワイリー盗難の一件を話した。
「そんなわけですから、貴方に儲けさせたいけれども、私が自分でお手数料だけ払ひますから、図書館の為に、これをこのまゝきれいに譲ってください。」
 丁度そこへ、見知りごしの白崎喜之助と云ふ当時の奉天の地方委員の一人が来たことを覚えてゐる。はたから話の内容をきいて、白崎君も一緒になって、店の親爺さんを口説きにかゝった。結局僅かな金を払ってこゝに芽出度くワイリーは図書館の書架に還った。もう陳列棚は懲り懲りで、以来陳列棚には展覧に都合のいゝものは置くが、かけがへのないものは平日は置かないことにしてゐる。
 このことを後で警察署長の末光君に話すと、「左様か、やはり彼奴がやったのだったのか。」と如何にも残念さうに云った。こゝで署長の所謂彼奴というのは、云ふまでもなく牢死しした美青年のことだが、それは前後の事情からの推断であって、これだけではその男が当の真犯人とは云へぬかも知れぬ。それから犯罪の動機だ。これを金にするつもりだったのか、意趣か、他に用途があったのか、それも判らぬ。

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 兎もあれ、自分はこのことを思ひ出すと、この場合は植田梶太さんであるが、人間の深切と侠気と云ふものが、この世に於てどんなに有難いものであるかを、シミジミと思わせられるのである。(終)

 
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