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岡村敬二教授 「戦前期「外地」で活動した図書館員に関する総合的研究」

 
内藤湖南生誕の地 毛馬内を訪ねて 2009年10月27日(火)

   付載 「大阪府立中之島図書館大阪資料・古典籍室小展示
        府立図書館展覧会の歴史-図書館ものがたり その1」

 

夕刻に秋田から鹿角市に移動して大湯で一泊し、翌朝9時に毛馬内の鹿角市先人顕彰館を訪れた。先人顕彰館は、鹿角ゆかりの先賢についての資料を収集し、それら先人の事績を顕彰する施設で、資料館・博物館の機能を持った機関である。鹿角の顕彰館では、内藤湖南と和井内貞行を中心にその業績を展示しているが、地域にゆかりの人物や業績、関連の事象について顕彰しつつ地域の精神的活性化をはかろうとするこうした活動はまことに貴重なものであると思う。

今回訪問前に鹿角市の観光交流課と連絡をとって資料の請求をしたところ、ご担当の淺利裕子氏から観光資料とともに顕彰館の案内なども送っていただき、来館時に何でも質問をしてくださいとのありがたいご返事をいただいていた。

 

内藤湖南の墓所は、よく知られているように京都鹿ケ谷の法然院にある。私事にわたるがわたしの義理にあたる叔父の墓所が法然院の新墓地にあるのでよく詣でることがあり、また大学でのフィールドワーク授業や所属する近代京都研究会の巡検でも「掃苔」ということでたびたび訪れている。またわたし自身の研究の関連では、満洲国建国時の文化事業に大きな役割を果たした日満文化協会の有力なメンバーとしての内藤湖南という存在がある。日満文化協会というのは、昭和8年10月に創設された満洲国文化事業の協議機関で、日本・満洲国両国の学者・役人らから構成された。湖南は、その晩年に病苦をおして協会の常任理事に就任し、満洲国側の、古い知友でもあった羅振玉を向こうにまわして役員人事や事業の策定や実施について尽力をした。こうしたこともあり、法然院の墓所を詣でるたびに、内藤湖南生誕の地である毛馬内を一度は訪れてみたいと考えていたのであった。 そして今回念願がかなって毛馬内を訪れることができたわけである。

朝9時過ぎに先人顕彰館に到着すると、ほどなく十和田史談会副会長の木村大作氏が館に出向いて来られた。観光交流課の淺利氏が顕彰館にお話を通しておいてくださったのだろう。顕彰館の館長が関西大学に出張の由で、木村氏にわたしとの対応をお願いしてくださっていたのであった。

木村大作氏は、この毛馬内の地で長く日用雑貨からガソリン、セメントまで扱った木村商店を経営してこられた方である。大作氏のご尊父は大正期に毛馬内の絵葉書を、「木村商店制作」として刊行された篤志家でもあられる。その絵葉書は顕彰館に寄贈されていてそれらを拝見したが、往時の毛馬内の様子を知ることのできるたいへん貴重な歴史資料となっている。こうした地域の篤志家による慈善的奉仕的な活動はまことに貴重で得がたいことである。

その木村氏から、「史跡案内」と題された要を得た解説附の地図や内藤家の系図、新聞記事「古い地図でまち歩き 毛馬内 上・中・下」(『秋田さきがけ』2009年7月19日・7月26日・8月2日)などをいただいて説明を受けた。そしてまたおまけに車でご案内をいただけるという。まことにかたじけない次第となったが、ありがたくご好意をお受けすることとして、内藤湖南の史蹟を中心に案内をしていただいた。ここで当日にまわった史蹟のいくつかを報告しておきたいと思う。

 

「内藤湖南先生誕生地」碑は顕彰館からすこし下った地点にある。この顕彰館の建っているあたりは、館と称される柏崎新城のふもとにあたり、落ち着いた武家屋敷のたたずまいである。湖南の生誕地のこのあたりは砂場(すなっぱ)と称され、家屋は、湖南の曽祖父官蔵が享和年間に建てたものである(三田村泰助『内藤湖南』岩波新書 昭和47年 289.1/Mit)。

湖南は慶応2(1866)年に十湾内藤調一の次男としてこの毛馬内砂場の家で生まれた。生まれたのは二間か三間の小屋で物置として建てられた離れ屋敷であった(内藤湖南「我が少年時代の回顧」『學海』第1巻第1号 昭和19年6月、7月、『内藤湖南全集 第2巻』所収)。本宅を十湾の叔父に占拠されていたためである。内藤家は代々南部藩の世臣桜庭氏に仕える家柄であった。湖南は短い期間をここで過ごしている。三歳のときに戊辰戦争、明治維新となる。内藤家が仕える南部藩は会津側の幕軍として参戦、佐竹秋田藩領内に侵攻するも敗退する。南部氏は朝敵として領地を削られ内藤家など鹿角の士族は士籍を失うことになった。維新後の廃藩置県・行政区画整理によりこの鹿角は秋田県へと編成されることになり、明治の時代、鹿角毛馬内にとっては厳しい出立となった。

なお碑の左に建つ説明の碑文によれば、この碑は道路拡張事業により約20メートル東方の現在地に移築したとあるので、実際の生誕地はすこし西の方角にあったということであろう。

「内藤湖南先生誕生地」碑
「内藤湖南先生誕生地」碑

 

この生誕地の近くにある仁叟寺には、「戊辰戦之碑」「日露戦之碑」「日清戦之碑」「支那事変之碑」と四基建つ。そのうち内藤湖南撰文のものは真ん中の二基「日露戦之碑」「日清戦之碑」である。

その背後の墓地に、「内藤天爵先生墓」「十湾内藤先生墓」「湖南内藤先生遺髪塔」と内藤家三代の墓所がある。湖南の墓碑に遺髪塔とあるのは、湖南が京都法然院に葬られたあと、遺髪が故郷の毛馬内に送られ、祖父天爵・父十湾と共に葬られることとなったことによる。法然院の墓所をめぐるたびに毛馬内の墓所を詣でたいと願っていたことがようやく叶った。

仁叟寺は、明暦3(1657)年に当時の城主毛馬内氏に代わって柏崎館に入った桜庭氏の菩提寺であり、宮古から移ってここに建立された寺である(『毛馬内 毛馬内町割り四〇〇年物語』毛馬内町割り四〇〇年物語祭り実行委員会編刊 平成20年8月)。仁叟寺では境内の紅葉もすでに色づいていて、国道沿いの山門から入ると風情のあるたいそう美しい寺であった。

仁叟寺山門
仁叟寺山門(2009年10月27日)

内藤湖南撰文「日露戦之碑」「日清戦之碑」
内藤湖南撰文「日露戦之碑」「日清戦之碑」


仁叟寺から内藤湖南旧宅「蒼龍窟」に向かう。この旧宅は柏崎新城の丘陵に建つ。柏崎新城は慶長12(1607)年に完成、城主毛馬内政次は旧城である當摩館(とうまだて)から引き移ってここに城を構えた。蒼龍窟は湖南の父十湾が明治13年湖南15歳のときにこの新城本丸横に建てたものである。十湾はここで郷里鹿角の歴史を著し明治40年3月に三餘堂蔵版『鹿角志』(291.24/Nai)を刊行した。家屋は現在改築されて内藤家ゆかりの方がお住まいであるが門は当時のおもかげを残し、吉田晩稼書・十湾刻の扁額「蒼龍窟」が架かっている。

扁額を書した吉田晩稼は天保元(1830)年長崎生まれ。江戸に出て高島秋帆に蘭学と兵学を学んだ。明治維新に山県有朋の秘書、そして陸軍大尉となりその後書家に転じている。靖国神社の石標や天王寺の本木昌造記念碑を書いた人物である。

さてこの蒼龍窟の隣には十湾がむすんで学びを深めた学堂三餘堂がある。この三餘堂は、京都の東三本木、鴨川の西岸にある頼山陽水西荘の山紫水明処を模したものであるとされる。

十湾は敬愛する頼山陽の山紫水明処を明治40年11月初旬に京都帝国大学文科大学講師に就いた湖南とともに訪れている。この京都来訪で十湾は、湖南の案内により山崎闇斎(墓所黒谷)の贈位報告祭、梁川星巌五十年祭(墓所南禅寺塔頭天授庵)に列席し宴に臨んで京都帝大の教官らと「愉快ニ情懐ヲ吐露」した。そして年来「欽慕」してきた頼山陽山紫水明処に湖南とともに参観に訪れる。建物はたいへんに小さいものであるが「風流洒然脱俗絶塵」で他日これに擬して一小書室を建てて老を老後の勉学に励みたいと考えて湖南に図を描かせている(内藤調一『漫遊記 避寒紀行』明治41年6月 本学蔵 291/Nai)。湖南はこの三餘堂、蒼龍窟の建つ高台から眺めた光景を次のように詠じている。

 

吾の家、爽丘の上に在り、而して下平田に臨む、五宮、靑狭間、諸嶽蒼翠軒に入り、而して遥碧八幡平に連なるを望み、米白川の三源流、三方より来りて、雄神雌神の両絶壁の間に会流し、練を抱くの色、眼底に在り 庭隅一老松、斜に眼界を遮断す、是れ郷に帰るの時、毎に数里の外より望で以て家門の標識と為す所也。醇庵の隠居、何如の景なるを知らず、其の衡門茅屋の新居を想ふ毎に、又郷思を棖觸して、神百七十里の外に飛ぶを免れず。

 

三田村泰助はこの光景が、京都帝国大学を退官した翌昭和2年8月に湖南の移り住んだ瓶原恭仁山荘から木津川を眼下にし、遠く春日山を見晴るかす光景と驚くほどよく似ていると述べている(前掲三田村泰助『内藤湖南』)。

また案内いただいた木村大作さんのご説明では、以前はこの高台から小阪川や大湯川を望むことができたといい、湖南が木津川を見晴らすことのできる瓶原恭仁山荘に移り住んだのも、それがこの三餘堂からの眺望と似ていて湖南の気に入ったからであろうとお話された。木立が茂って少し見晴らしがわるくはなっているが、実際に立って見晴らしてみると、その光景は湖南にとって忘れがたいものであったろうということは想像できるところだった。

蒼龍窟と道を隔てた地点には十湾の私塾「育焉亭」があったという。十湾が小学校の権舎長になりこの地に居を得たもので、それは小学校の分教場とも少年らを教育した塾であるともされる。今では碑だけであるがここで十湾は後進の教育にあたった(前掲内藤湖南「我が少年時代の回顧」)。

内藤湖南旧宅「蒼龍窟」
内藤湖南旧宅「蒼龍窟」

 

蒼龍窟あたりから大湯川を望む
蒼龍窟あたりから大湯川を望む

 

このたびこの内藤湖南旧宅の横に湖南の胸像が建てられた。わたしが訪問した10月28日にはちょうど台座を造っているところであったのだが、その10日ほど後の11月8日に完成なって除幕式が行なわれている。木村大作氏がお送りくださった『北鹿新聞』(11月9日)によると、寄贈したのは毛馬内出身の医師で東京毛馬内会前会長木村博氏とのことである。

蒼龍窟を後にして、古舘と称されることとなった旧の城跡当摩館を案内していただいた。桜庭氏に変わる前の毛馬内氏のご子孫たちが建てられた「毛馬内氏発祥の地」の碑が建っている。

ここでいったん鹿角市先人顕彰館にもどり、近くの食堂で昼食をすませた。そして午後はしばらく毛馬内の町をひとりで散策してみた。木村さんに案内をしていただいた仁叟寺の記念碑や墓所をもう一度歩き、さらに午前中に拝見した木村商店刊行の絵葉書にある町通りを歩いて毛馬内の往時をしのんだ。

湖南生誕地の碑が建つすぐ近くの国道282号線沿いには、私立立山文庫が残っている。この文庫は、立山弟四郎(ていしろう、慶応3年生まれ)が、自身の収集した蔵書約1万巻をもとに大正2年11月、私立「立山文庫」を開設して住民にもひろく貸出をはじめたものである。弟四郎の死後、遺言により蔵書を毛馬内町に寄付して、昭和21年4月「立山文庫継承毛馬内町立図書館」として発足し、昭和30年4月「立山文庫継承町立十和田図書館」、現在は、昭和47年4月の合併による鹿角市発足により「鹿角市立立山文庫継承十和田図書館」となった(鹿角市ホームページhttp://www.city.kazuno.akita.jp/kakuka_folder/library/lib-top.jsp 2009/12/17)。

湖南は、昭和5年にこの館山文庫のために、「宛委山」の扁額を書いている。この「宛委山」の来歴は次のようである。

中国古代の禹は鯀の子どもであるが、その父親鯀は水害を治める事ができないことを理由に帝尭により追放され入水自殺した。禹はその父の後を継いで治水の事業にあたることを命じられ、全国を歩いてひたすら治水事業に努めた。しかしながら治水作業に充分な効果を生じさせることができなかった。そして思慮を重ね『黄帝中経歴』を調べることで、九山東南に宛委山(天柱山)という山があり、その宮殿に赤帝が住んでいること、そしてそこに一冊の書物があり、その書物は大きな石で覆われていること、そしてこの書物は黄金の簡札が使われていて青い宝玉で綴られた文字がかかれていること、その文字はすべて浮きあがって見えること、などを知った。そこで禹はこの山に登ったが閲覧することは叶わなかった。禹はひどく悲しみそして眠ってしまったがその夢枕に少年が現れ、自分は山神の使いのものである、いまはまだこの書物を読むことは叶わないが、黄帝厳嶽の下で心の不浄を清め身を戒めなさい、そうすれば三月の庚子の日に山頂に登って石をはがすとそこに黄金の書物が見つかることであろう、と告げた。禹は山を下りて少年の言の通りに行ない、告げられた日に宛委山に登ると、少年のお告げのとおりに書物が在り手にすることができた。そしてそこに書かれている黄金の簡札の文字を読み内容理解して、ようやく治水の方法を会得することができた、というものである(「呉越春秋越王無余外傳第六」『増補中国史学名著第123集合編』、訳は 「[1] 歴研会巻六越王無余外傳」http://0bbs.jp/no5/ を参照した。2009/12/18)。

 

聖人禹がこうして苦労して秘書を手に入れ業績を残すことができたとの故事をもって、湖南はこの立山文庫を「宛委山」になぞらえ、得がたい書物が積み重なっている文庫として「宛委山」と揮毫して扁額としたのであろう。

立山弟四郎創立の立山文庫
立山弟四郎創立の立山文庫

 

毛馬内の町の散策を終えて先人顕彰館にもどり、展示を改めて見学した。三餘堂を模した学堂には扁額が架けられまた小坂川の流れが窓から望むようにと写真が設えらていた。親切にご案内をいただいたこともありよい勉強をさせてもらった。そして顕彰館で昭和56年3月から刊行されている内藤湖南先生顕彰会『湖南』誌を創刊号から揃えで購入して辞することとした。

毛馬内を案内くださった木村大作さんが南十和田の駅まで送ってくださるというので、これもご好意に甘えてお願いすることにした。そして顕彰館の展示で見る事ができた神田喜一郎撰文「内藤湖南先生頌徳碑銘」を現地で見学したいと申し出て、駅までの途次、十和田中学校の入り口の頌徳碑を案内をしていただいた。

この碑にある湖南「日進無疆」の揮毫は『書論 第13号 内藤湖南』に載る。また同誌には、「此ノ毛馬内ハ我国近代ノ碩学トシテ名聲寰宇ニ徧キ内藤湖南先生ガ生誕セラレシ地ナリ」で始まる神田喜一郎の撰文 大里武八郎書の碑銘原稿が掲載されている。

神田喜一郎撰文「内藤湖南先生頌徳碑銘」
神田喜一郎撰文「内藤湖南先生頌徳碑銘」

 

南十和田の駅まで送っていただき、駅前の和井内貞行の胸像をみて、列車に乗り込んだ。

木村さんにいただいた新聞のコピーや、館で購入した『毛馬内』を読みながらその歴史を勉強しつつ盛岡に向かったことであった。

十和田史談会副会長木村大作氏、観光交流課の淺利氏裕子氏、鹿角市先人顕彰館のスタッフの方々にたいへんをお世話になった。この先人顕彰館の今後のいっそうの充実と発展を祈念し御礼を申上げたいと思う。

2009/11/03

 

 

 

(参考)
大阪府立中之島図書館 第2回大阪資料・古典籍室1小展示
府立図書館展覧会の歴史-図書館ものがたり その1

平成8年6月17日~7月30日

図書館開館前後のこと

この府立図書館は、大阪図書館という名称で明治37年3月1日に開館した。建物および資料整備のための基金は住友第15世吉左衛門友純の寄贈によるものであった。

明治初期大阪の図書館関連の施設はというと、大阪舎密局(明治2年開講、以後幾多の変遷を経て蔵書を含め京都の三高に移った。碑文が谷町四丁目交差点東にある)、大阪府書籍館(明治9年、小学校に附設)、府立博物場(同年開設、蔵書は一部当館に引継ぐ)、愛日文庫(明治5年、山片家寄贈、和漢の貴重書多数)などが存在していたが、規模からしても、公開性(閲覧券が必要ではあったが)からしてもこの大阪図書館の開館は待望久しいものがあった。

開館してから1カ月間の一日平均閲覧者は253人、ほかに館内見物も50人ばかりいたという。

 

1.大阪書籍館 『大阪名所独案内』明治15年 378-1022

2.大阪府立博物場 『浪花大阪名所』明治35年 378-756

3.明治期図書館関連年表

4.開館当時の大阪図書館 『大阪朝日新聞』明治37年3月16日

5.開館当時の図書館日誌(館資料)

 

開館時に第1回展覧会

さて、展覧会である。当館の第1回の展覧会は、開館2カ月後の5月14日に開かれた。市内の蔵書家30名によびかけて「珍奇書」350点の出品を得た。稀覯図書の展覧会であった。

 

6.『大阪図書館第一回図書展覧会列品目録』(館資料)

7.第一回展覧会当日の日誌(館資料)

8.『大阪図書館第二回図書展覧会列品目録』(館資料)


当時の展覧会は、このように、普段あまりみることのできない第一級の資料を、館外の有志から借り受けて公開・展示をおこなう、いわば眼福を得る、というものであったようだ。なお当館で展観のあった明治大正期の主要な展覧会については、多治比郁夫「大阪府立図書館の展覧会」『大阪府立図書館紀要』第3号(のち多治比郁夫『京阪文藝史料』(『日本書誌学大系  89(1-5)』青裳堂書店 2004年 に所収)を参照していただきたい。

 

当時の展覧会の背景-「人文会」

これら開館当初に開催された展覧会のうち、明治42年11月の「稀覯図書展覧会」以降数回にわたる展観は、大阪図書館を会場として開かれた「人文会」という会合に合せて開催されたものであった。

戦前期の展覧会の多くは、こうした、当館の図書館長をまじえた文人たちの交流を軸として開催されたものであった。あとででてくる昭和10年開催の「恭仁山荘善本展覧会」もそうした展観のひとつであった。

それではここで、いささか迂遠なみちのりとなるが、こうした展覧会の背景をなしていた「人文会」や「近畿図書館倶楽部」、そして大阪図書館開館当時の図書収集に大きく寄与した鹿田松雲堂のことを少しみておく。

開館時から古書の収集については大阪の古書店鹿田松雲堂が力をつくした。そして開館記念にと店主鹿田静七は『論語』を寄贈している。これは正平19 (1364) 年の刊行で、当館の貴重書のうちでも依然として第一級のものである。

その古書店鹿田松雲堂の周縁には内藤湖南(東洋学者、名虎次郎、朝日新聞記者からのち京都帝国大学教授)や幸田成友(経済史家、大阪市史、大塩平八郎などの研究家)、島文次郎(京都帝大図書館長)、それに今井貫一(当館初代館長)らが集い、書籍の収集をめぐって「暗闘」をくりひろげていたという。

 

9.『古典聚目』 1号、 『書籍月報』『古典聚目』解題   031-91

 

こうした交流を背景に、明治42年9月4日、大阪の文化を語り合う会として、「人文会」が結成となり、当館を会場として開かれた。来会した人たちは、西村天囚、渡辺霞亭、永田有翠、水落露石、角田浩々、木崎好尚、鹿田静七らで、座長は今井館長、会の常務に木崎と上松寅三(当館司書)が。選出された。

例会ごとに講演がもたれ、この第一回の会合では、木崎好尚「篠崎小竹の」、小山田松翠が「大阪演劇の創始時代」と題して話があった。

第二回の「人文会」は同年の11月14日。このときの講演会で西村天囚が、懐徳堂のこと、生田南水が暁鐘成について語っている。この会には島文次郎京都帝国大学図書館長も参加している。そして第二回の会合から、関連図書の展示がおこなわれ、それが以降の慣例となった。さらにこの席上で、天囚が懐徳堂記念会の設立を提案し、それがきっかけとなり、明治43年9月27日、発起人会を開催、記念会が発会することとなる(以上は多治比郁夫「大阪人文会覚え書」『なにわづ』72号 による。のちに前掲の多治比郁夫『京阪文藝史料』に所収)。

このときの展覧会のことを宮武外骨が『このはな』に書いている。第三回の人文会に合わせ開かれた、大阪の風俗に関する展覧では、木崎好尚の蔵本『夜長草紙』、大丸呉服店の蔵本『装束記』が珍書であろう、と記している。各界で興味を惹いたであろうことがうかがわれる。

 

10. 明治42年11月の稀覯図書展覧会当日の図書館日誌( 館資料)

11 .『このはな』  第3枝     571-76

 

この時期明治42年から44年の間に開催された展覧会は、この「人文会」に合わせて開かれた稀覯図書展覧会を含めるとなんと9回に及んでいる。開館当時の意気込んだ雰囲気を感じ取ることができようか。

 

もうひとつの背景-「近畿図書館倶楽部」

また、この明治時代中頃は京阪神の図書館の開館ラッシュ、図書館の創設期にあたっていた。京都府立図書館は明治31年、京都帝大図書館は明治32年、当館が明治37年と、その開館の時期をほぼ同じくし、各館および各館館長は競って資料の収集にあたった時代であった。さきの鹿田松雲堂の古書をめぐっての「暗闘」もそのひとつのあらわれである。

そうしたなか、図書館を会員とし、その館務の報告・研究を目的とした団体「近畿図書館倶楽部」の結成が呼びかけられた。その呼びかけ人は、新村出(京都帝大図書館長)、湯浅吉郎(京都府立図書館長)、今井貫一(大阪図書館館長)の三人であったといわれる。

それは大正2年のことで、発会式は9月21日にもたれた。この発会の経緯には、さきの「人文会」による交流や人脈のほかに、明治32年から活動をはじめた「関西文庫協会」(機関紙は『東壁』)も深く関っていた。

この会合は当館を会場としても開催されている。会場の当番となったときにかならずしも展覧会を開催したわけではないが、昭和3年5月26日の19回総会は中之島公会堂が会場で、会終了後当館主催「和漢本草図書展覧会」の見学がおこなわれている。(この近畿図書館倶楽部については、仲田惠弘「近畿図書館倶楽部(近畿図書館協議会)事歴稿」『大阪府立中之島図書館紀要』17号を参照)。

 

12,13. 「和漢本草図書展覧会」昭和13年(館資料)

 

「恭仁山荘善本展覧会」

こうした、京阪の図書館風土を背景として、昭和10年3 月26日には、「恭仁山荘善本展覧会」が開かれた。恭仁山荘とは京都相楽郡瓶原村の内藤湖南の居宅である。

内藤湖南は慶応2年、南部藩の陪臣儒者の次男としてうまれた。政教社同人、『日本人』の編輯を経て朝日新聞社記者。明治40年、京都帝国大学文科大学に史学科が設けられるにともない狩野亨吉に招かれて講師、のち教授となる。

狩野直喜とともに東洋史の京都学派を築いた。昭和9年に湖南は亡くなったが、その旧蔵書がここ府立図書館で展観されたというわけである。今井貫一館長らとの交友がこの展観を実現させたのであった。

湖南はその蔵書を、明治32年に一度焼いている。その蔵書のうちには、明治29年大阪の朝日新聞社を退社して東京へもどる際、船で送ったという千余冊も含まれていて、その書物のほとんどが鹿田松雲堂で購入したものであったとされる。湖南は、没後数万巻の書物を遺したが、それらの書物のうち多くの善本は、明治33年からふたたび大阪の朝日新聞ですごした6年間に鹿田松雲堂から購入したものであった。その善本が当館で展観された、というのも、なかなか因縁めいたものを感じる。

さて、展観は、氏の遺蔵書から約100部を選んで、昭和10年3月26日から28日までの3日間開催された。目録は76頁のものが作られたが、展観を記念して『恭仁山荘善本書影』と名付けられた豪華な図録も刊行されている。

 

14.「恭仁山荘善本展覧会」へのご案内 図書館日誌(館資料)

15.『恭仁山荘善本書影』(21-76)

16.恭仁山荘善書斎での内藤湘南『内藤湘南全集』第11巻 (330-347)

17.「恭仁山荘善本展覧会」の芳名録(館資料)

 

これらの書物は、昭和13年、一括して武田家に譲渡され、杏雨書屋に収められた。この恭仁山荘善本の譲渡にあたって、羽田亨京都帝国大学教授(昭和11年から第四代附属図書館長)が、同附属図書館の司書官を退任した山鹿誠之助(昭和12年退任、山鹿素行の子孫)にその解読書の作成を依頼し、それは昭和14年12月に完了して武田家に渡された。昭和60年になり、この山鹿の解説を付して、『新修恭仁山荘善本書影』が刊行されている。

そこには、羽田亨のご子息明氏が杏雨書屋館長として「序」と「内藤湘南博士と恭仁山荘善本」、そして「山鹿誠之助氏略伝」を書いておられる。こうした書目や解題作成を担った影なる存在に対しても忘れず記念される羽田明氏の姿勢にはこころより敬意を表したいと思う。

 

18,19,20.『新修恭仁山荘善本書影』(012-83)

21.『大阪府立中之島図書館九十年』

 

羽田明氏は、「山鹿誠之助氏略伝」の最後にこう記している。

 

氏の遺稿『恭仁山荘善本解説』の公刊に際して、内藤博士と山鹿氏との関係を顧みて、因縁の不可思議を覚えること切なるものがある。

 

この山鹿は、新村出館長のよき補佐役であったし、その新村はさきの「近畿図書館倶楽部」に幾度か参加している。山鹿も新村に伴いこの図書館に幾度かやってきたのかもしれない。府立図書館の展示を機会に、こうした、書物を巡り書物に集った人びとの交流をあわせて考えてみると、まことに、書物を巡る「因縁の不可思議」、数奇な運命を覚えることしきりといわねばならない。

 

注  これは、筆者が大阪府立中之島図書館大阪資料古典籍室に在職中に担当した小展示の解説として作成し配布したものである。今回の「内藤湖南生誕の地 毛馬内を訪ねて 2009年10月27日」とその想いを一にしているのでここに再録した。なお字句など少し訂正をおこなったがほぼ当時配布したものである。この展示の期間は、平成8年6月17日~7月30日であった。
「図書館ものがたり」とあるが、当時筆者が担当した他の展示はつぎの通り。

第6回 木村蒹葭堂関連展覧会の歴史-図書館ものがたり2  平成8年12月3日~12月27日

第12回 当館初代館長今井貫一の事蹟-図書館ものがたり3  平成9年7月1日~8月15日

第16回 図書館草創期の図書寄贈-図書館ものがたり4  平成10年1月10日~2月14日
なおこの小展示は現在もなお継続して開催されている。

 

(2009/11/04記)

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